「怒り」の構造(99.5.19)
村瀬学さんの「「怒り」の構造」(宝島社)を読んだのだ。別に怒った気分を鎮めようとこの本を手にとったわけじゃーありませんけど…。
村瀬さんはここで何度も名前を出してるけど、話題の?「13歳論」の著者であり、私がさして興味もなかった「なぜ人を殺してはいけないのか問題」に首を突っ込むきっかけを作ってくれた人でもあります。その後「13歳論」も実は読んだのだけど、タイミングが合わず、感想を書き込んでいなかった。村瀬さんの本はどっちも、社会とは?とか近代とは?とかいう大上段から行くのではなくて、こういう「怒り」とか「13歳」とか「ことわざ」とかの、ごくごく身近なところから、考えを深めていって結果的に、すべてが繋がっていくような大きな地点に引っ張っていくという展開が魅力だ。「13歳論」なんか特にそうだけど、13という数への異常なほどのこだわりで論を展開して行くんだけど、結論はたとえば俗流心理学のように「13歳だから○○」という型にハマったところには行かない。よくあるじゃない「三人兄弟だと真ん中は自分勝手になる」とか言う決めつけ型のハナシって(ん?どっかで聞いたような…)。
面白いのは、サブタイトル「この不本意を生きるかたち」にあるように、怒りということが成立するには、かならずその前提に「不本意」と感じるコトがある。つまり暗黙のカタチではあるが、「〜は、かくあるべき」という信念・倫理・道徳のようなものを、それぞれがあらかじめ持っているのだ、としているところだ。言われてみれば当たり前だが、そうであれば「怒り」はむしろ「倫理的なもの」という面を持っているということなわけで、こういう見方はあまり見たことがないような新鮮さを憶えた。
私の言い方で言えば、怒りにせよなんにせよ、感情はリアルをめぐって起きる、のだが、怒りとは、「〜は、かくあるべき」という信念的・道徳的なコトのリアリティをめぐって起きるのだ、と言えばより精緻になるだろうか。コトとしてのあり様をめぐってそれが起きている、ということは、先日の野矢さんの言葉で言えば、怒りは「根元的な虚構を巡って起きている」ということになる。
ふとそんなことを考えたのは、先日、竹田青嗣さんと西研さんの対談『哲学の味わい方』(現代書館、またまた、哲学ですが…)を読んでたら、最後のところで竹田さんが面白いことを言っていて、「自我とは何であるかというと、…自我というのは自分自身の中でルールが確立されているということです」というのね。このルールということで竹田さんは「いろいろなレベルがある」けど、「いちばん大きいもの」として「真・善・美」をあげてるのだ。これは一見古くさい道徳哲学に見えるかも知れないけど、事実としてこの「真・善・美」が、「ほんと――うそ」「いい――わるい」「美しい――みにくい」という基準として、しかも「身体化」されたものとして確立されている。そうあるべき(例えば「自立」の基準として)ではなくて、すでにそのように好むと好まざるとにかかわらず出来上がっている。だからこそ、誰に教えられなくても「怒ったり」できるわけだ。
竹田さんのいっている「善」のルールについて、深〜く考察したのが、結果的にはこの村瀬さんの「「怒り」の構造」ってことになるだろう。それにしてもこういうエッセンスだけを抜き出しても(オレには)面白いんだが、村瀬さんの本の面白さは、村瀬さんが文芸評論というジャンルにいることもあって、そこで引用されてくる「ブンガク作品(哲学的作品も含む)」の事例の豊かさだ。「13歳論」もそうだけど、そこで扱われている本は、読んだことがあるものでもないものでも、こんなにも自分の関心に身近なものだったのか、とあらためて驚かされるばかりだ。
とくにこの「怒り〜」の本では、アラン(哲学者)のいう「怒りの鎮め方」のハナシが役に立った(やっぱ怒りを鎮めようとしてたんじゃ…?)。ようするに怒りは硬直だから、それをやわらげる体操をすればいいってのだ。体操というのは、規則(ルール)にかなった身体の動きという意味で他者性を巻き込んでいて、それは「礼儀」に繋がっている。礼儀とは、自分の感情と共に対人関係の場をも和らげていく、身体レベルでの体操なのだっていうことなのだ(社交ダンスが典型的でしょう)。う〜ん、深い。オレもかくありたいね。怒りに燃えたら、ダンス、ダンス、ダンスと唱えようかしら。ってわけで、村瀬さんの本はメチャクチャ面白いので、オススメしておく次第です。
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