でぃーぷ・ひるます VOL.4

でぃーぷ・ひるます

平野啓一郎「日蝕」  99.1.29

くやしー。別に芥川賞がくやしいのではない。先にやられたのがくやしいのだ。何を先にやられたかといえば、「薔薇の名前」(エーコ)のパクリを先にやられたのだ。パクリではないと、おっしゃるだろうが、それならそれでかまわない。パクリを責めようというのではないからだ(だってオレだってパクリたかったんだもーん)。
パクリというのがなんなら、世界の借用といってもいい。
この方、絢爛ゴーカな言葉(漢字)をつかって擬古典調をねらった云々と言われてるけど、読んでいてそういう風格は感じられない。意味もなく難しい字がつかわれているけど、文章から感じられるのは、単なる現代的な軽いエッセイ的文体だ。文体のかもしだす「ブンガク的」魅力はない。とくに哲学史的な問題の「解説」は、まるで現代の哲学解説書の無味乾燥そのもので、引き写しただけじゃないかと感じるほど。
で、そうまでして絢爛ゴーカ文体を装いつつ、この人、ぜんぜん、この当時の服装がどーだったとか、情景がどーとかは書き込んでないのだ。この程度を絢爛ゴーカというなら、京極夏彦の方がよっぽどゴーカな上に、描写もしっかりしている。イメージがわいてくる。ちなみに先に書評した野崎六助氏によれば、京極はデザイナーとしての感覚で文章を構築する。字で書いたマンガなのだ、というわけだ。字で書いたマンガという「形式」は平野氏にもあてはまるが、形式は同じでも、こっちは表現力のレベルが低い、と言わざるをえない。で、あるにもかかわらず、この世界をボクらがイメージできるのは、ようするに「バラの名前」の映画をみてるからじゃん。それによっかかって書いてること自体を世界のパクリだ、と言ってるわけだ。表現力のなさを絢爛ゴーカでごまかしてるんじゃないだろーか。
しかしそれでも内容がよければいいが、これ内容がない。だいたい登場人物がどれもこれもほとんどセリフもなく、生きた人間という感じがしない。いわゆる人物が描かれてない?ってやつ。これでは中世を舞台にしたRPGの方がまだ「人物」が描かれている。主役のモノローグにしてからが(そもそもこのモノローグが「バラの名前」のパクリだが)、上っ面の「思考」を追っているだけで、深みがない。さらに決定的なのは、かんじんのストーリーが、バカSFで、ノベルスだっていまどきもっと面白れーぞ、と言いたい(「でぃーぷ」に移動したので追加してネタバレ書いちゃうけど、タイトルが「日蝕」でまさかあのラストはないよね。まさかこんなあからさまに分かり切ったこと、やらないよなってのを堂々とやってしまったという意味で、「ループ」と同じじゃん)。
よーするにダメづくしなのだが、オレだって普通ならこんなヒドイことは言わない。先に「バラの名前」をパクラれたという怒りで言っている、というわけだが、それだけではない。実ハこの人、読売夕刊に(またまた読売ネタですいません)「芥川賞を受賞して」という記事を書いていて、「全的な人間理解」を目指すのだ、などとかっちょいいことを言っているのだ。そこでエリアーデ(宗教学者)を引っぱり出して、彼の仕事こそ人間を「全的に」とらえるモデルだといっていた。私はエリアーデというのはよく知らないのだが、これ読んでみたら、なるほど著者がエリアーデから抽出したらしい「超越的体験」なるものを小説にしてみただけ、ではないか。よーするにガイネンを絵にしただけだから、人物が描かれないのは当たり前だったわけだ。これじゃ人間を「全的」にとらえるなんてほど遠い。むかーし、大江健三郎が「文化人類学」を小説に導入して是か非かという論争が起きたのだが、それが是にせよ非にせよ、大江健三郎の小説には人物も描かれていたし、ストーリーだって泣けたぜ。
さらに言っておくと、「全的に」というのは、宗教、思想、心理だけではなく、科学だってそうだし、経済、社会といった問題を抜きには語れないはずだが、この人のカンシンの中には、そういったものはすっぽりと抜け落ちている。ちょっとどーにかしてくれよ、と言うと共に、ひるますの読者には、ぜひとも私の「パクリ」に期待していただきたいものだ。すでに2年ほど前から、ここに予告を掲示している
教訓。思いついたことは早くやろう。


このページに掲載された情報・画像の著作権は、ひるますに帰属します。無断転載・転用・改変は禁止いたします。このページへは直接リンクしないでください。上位のホームページ(トップページ)へお願いします。

でぃーぷ・ひるますの目次へもどる
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com

でぃーぷ・ひるます

「リング・らせん・ループ」イッキ読み  98.3.24

「リング」は怪談として、とても楽しめた。
そのいきおいで、「らせん」はラスト近くまで楽しめた。ラスト近くで、「あれ・・」と思い、読み終わったときはちょっと「あきれて」いた。(スマイリーキクチの口調で)
しかし、私は久々の「イッキ読み」が楽しめるということで、すでに「ループ」を買い込んでいた。「イッキ読み」というのは、むかし誰でもやったかと思うが、マンガ単行本などの軽い内容のものを数十巻、徹夜して一気に読む、というアレである。
小説としては、とても読みやすく、感情移入もしやすく、要するに「うまく」できている。しかし・・こんなのほとんどネタバレというか、フツウにSF読んだ人間なら、最初から結末は分かっちゃうようなものではないだろうか。分かっちゃう、というか、「ひょっとして、こうなるんじゃ・・、いや、そんなバカな内容の小説がどうどうと書かれるわけがない」と思うんじゃないだろうか。ところがどっこいその「予想」は裏切られ、あまりにバカな内容のストーリーが「どうどうと」書かれてしまった。それが、「ループ」である。

風呂に入って考えたのだが、この「ループ」世界では、「まったく同じ世界」が再現されている以上、こうやってシャワーを浴びるときにはじけ飛ぶ水滴のひとつひとつの情報が、例のコンピュータの中ではすべて「情報として」存在しているにちがいない。しかも洗い流された汚れや洗剤などが地下道をとおって地中に浸みていくところまで再現されているはずだ。そこから発生した病原菌が何人かの命を奪うなんてことが、とうぜん歴史の中には起こったはずたから。しかもそのひとつぶ、ひとつぶを見てそんなことを考えているオレの意識、のようなものを、このループというコンピューターは同時に何億人ぶんもの「意識」として処理していなくてはならない。とうぜん、そのひとつひとつが歴史や進化になんらかの影響をあたえてくるはずだからだ。というか歴史を作り出す大きなきっかけとなるものでも、その元はといえば、そのようなささいな「意識」のうごきにたどりつくわけだから、コンピューター上で、現実のような「歴史」を再現したいのであれば、そのような、ささいな意識を「すべて」あらかじめコンピューター上に用意しておく必要があるだろう。そうでなければあらかじめ決まり切った「いくつかの枝分かれした歴史」(光栄のゲームみたいなもの)をシミュレートしているだけのことであって、たった一個のRNAから「すべて」が生成した歴史というものにはならないだろう。

そもそも鈴木光司さんにしてからが、この「ループ」を書くに当たり、なんどもなんどもこの原稿を書き直したり、構想を頭の中で練り直したりしているはず。そのような「表現行為」がこのよではごまんと、いや五万どころではなく、無限と思われるほどにしかも「同時に」くりひろげられている。そのような意識を「すべて」再現しうるコンピューターってなんなんだ。

このコンピューター、たった一個のRNAから、この現実とほとんど同じ社会・文化・歴史を持つ世界をつくりだしているからオドロキだが(たとえば日本語という言語、名前の付け方まで「同じ」なんてどーしてそうなるのか)、こんなコンピューターがあったら、当然、人類がどーして誕生したのかとか、邪馬台国はどこにあったとか、キリストはホントにいたのか、などなどきわめて重要なことがわかるはずで、こんな下らないストーリーを読まされるなら、そっちのほうがオレは知りたい。

それに、このループ世界、完全な閉鎖系と考えられているみたいなのだが、どうなのだ。恐竜は巨大隕石の落下によって気候が急激に変化したために絶滅したという説があるが、ループ世界では、いったい誰がどーやってなんの根拠があって、恐竜を絶滅させたのだろうか。気になる。そう考えてみると、地球が完全な閉鎖系として時を刻んできたなんてことはありえないわけで、恐竜における隕石ほどではないとしても、日々刻々変化する宇宙からの影響を、太古の時代の状況をふまえて再現するなんて、できっこない。ウィルス宇宙飛来説というのもある。もちろん、宇宙の彼方から地球の生命系と同種の暗号をもつウイルスが飛来するというのではなく、地球上で発生し、浮遊したウィルスが、太陽黒点の活動による「太陽風」によって地球上に散布されるということなのだろう?が、太陽黒点の活動が不規則であるために、どこにどのように散布されるかということは、完全に現実をシミュレートしえないだろう。それだけでも進化途上のどの時点でどのウイルスが散布されるかということは、それこそ「一回こっきり」の出来事であって、「同じ」歴史が再現するなどということはありえない。そんなことを言うまでもなく、歴史上、重要な活動をするはずだった人が、隕石の落下によって死んだ、などということが、この歴史においてはありえたかもしれない。それをどーやってシミュレートするというのだ!

まあ、どーでもいいけど、こういう「アイデア」って、星新一とか、藤子不二夫的なシチュエーションとか文体ならマッチするんだろうが、鈴木光司氏がどんなに巻末に参考文献リストをあげて取り繕おうとしても、リアルに感じられる体のものではない。

さらにもう一言いっておくと、ラストについて、まず「らせん」のラストをリフレインするところでは、完璧にせりふを書き換えている。これは単なる「反則」。またこの後につづく森の中でのラストシーンについて、広告では「いまだかつてなかった感動」などというふうに書いてるが、ようするに「漂流教室」の焼き直しではないか。この2点をとっても許し難い作品だと思うのだが、どーなのだ。

ここで「でぃーぷ・ひるます」の本来なら、「私家版ループ」を書くところだが、そうするまでの「愛着」もかんじられない。やっぱ「リング」でやめときゃよかったのに・・、というところだろうか。


このページに掲載された情報・画像の著作権は、ひるますに帰属します。無断転載・転用・改変は禁止いたします。このページへは直接リンクしないでください。上位のホームページ(トップページ)へお願いします。

でぃーぷ・ひるますの目次へもどる
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com