でぃーぷ・ひるます VOL.2

でぃーぷ・ひるます

シンジ君の謎〜「エヴァンゲリオン」  97.7.13

小谷真理の「聖母エヴァンゲリオン」(マガジンハウス)という本をみつけて「おおっ!」とびっくりしたというか、「やられた!」と思った。この本はエヴァのいわゆる「攻略本」ではなく(ストーリーの謎を解くというのではなく)、エヴァを小谷さんのジェンダー論で解読しつつ、現代文明論を展開するという硬派な評論集になっている。
さて、私が「おおっ!」と思ったのは、他でもない、この本の帯に「あなた、女になりたいの。」というコピーが書かれていたことだ。

このコピーは、まさに私がエヴァについて考えていたことをそのまま言い当てていたからだ。
私はいぜん、エヴァについて書いたことはあるのだが、そこでは感想を書いただけで、なんら「解釈」は書いていなかった。私にも「解釈」はあるのだが、それを書いてやるのはもったいない、と捨ておいていた。その捨ておいた考えというのは、「シンジ君はようするに女になりたかったのではないか?」ということなのだ。

もっとも、さっそくこの本を買って読んだところでは、はっきりそのようなことは書いていないようだ。エヴァという作品を意味論的に分析する中で、登場人物たちすべてが自らの内なる女性性に直面するということがいわれ、そういう意味でカオルに対決する際のシンジは「女装した男性」として現れるというということが象徴的にいわれているにとどまっている。

この本はすでに書いたように基本的に「現代文明論」であって「攻略本」ではないので、そもそもストーリーの内的な論理としての「解釈」(謎解き)ではないから、当たり前と言えば当たり前なのだが。しかし、そこまでいうのであれば、とうぜん、私と同じ結論、つまり直接に作品登場人物の心理的分析として「シンジ君はようするに女になりたかったのではないか?」ということが言われるべきだと思うのだ。そうしてこそ、私にはあの最終2話の「ストーリーとしての意味あい」がすんなりと腑に落ちると思うのだ。このことは説明を要するだろう。

ここで近年の「ジェンダー理論」なるものを復習する必要があるのかないのか、いったいどういう人がここを読んでいるかがわからぬゆえに、よく分からないのであるが、私が理解しているアウトラインは次のとおり。

そもそも身体的レベルでの「性」すなわちセックスのレベルにおいて、「女であること」が基本にあり、「男」は特定のホルモン等の加工によって「つくられる」。すなわち「二次的な性」である。このことは最近では、免疫学の多田富雄が「女は存在、男は現象」という有名な成句?をつくられたので、わりと受け入れやすいのではないだろうか。

さて、動物であればそれで雌雄関係はなんの問題もないが、人間においては「本能が壊れている」がゆえに、さまざまな幻想レベルでの問題が生じてくる。いわゆる「ジェンダー」の問題はここにある。第一に「男であること(男性性)」は、生体的なレベルでは形成されても、心的なレベルでは(自然のままでは)形成されない。したがって社会的規範によって、つくり出す必要がでてくる。「男であること」の実情や規定がそれぞれの国や時代によって異なるのは、ここからくる。(また精神分析的な解読からの「男性性の脆弱性」について語っているのは、ジェンダークリニックで有名な及川卓氏だ。この心的レベルでの性の形成過程については氏の論文を参照のこと。)

とくに重要なのは「エロス」の位置付けである。多くの原始社会では、「女性であること」が最大の価値であり、女性がエロスの発信源として崇拝された。これは生体レベルの第一次的な性であることが、そのまま素直に反映されていたとみることができる。つまり単純なのだ。古代から中世にかけて、多くの社会では男性が社会の中心に位置するようになるが、しかし、ここでいう社会がはたして今で言う「社会」とどの程度重なるものなのかは疑問がある。政治的な社会として歴史に記述される社会は、ひょっとすると「家産と家計」を中心とする実体的社会の、たんなるおまけの様なものだったかもしれず、そしてこの実体社会の多くが現代にいたるまで「女系的」社会であったということも一部では指摘されているのである。それにしても、一部のもののサークル的なものとしてスタートした「男性社会」は、その囲い込みによって、その内部でのみなのだが、「男自身もまたエロス的身体を持ちうる」システムをつくりだしたのである。この草分けが「古典ギリシャの少年愛」であることはいうまでもない。そして貴族社会における男色、武家社会における「衆道」がそれである。またジェンダーが社会的規定にすぎぬことの証左として、西洋貴族におけるスカートやフリルのついた衣服がとりあげられるが、これも単にジェンダーの外面的規定が時代によって変わるという相対主義によってとらえるべきでなく、むしろ「男性のエロス化」があったことということを実体的に捉えるべきだろう。つまりこの期間においては、偽装的(かつサークル内の局地に限定的)であるが、男もまた「エロス的身体」を持つものとして「自己成長する」機会をもったのである。

これが近代にいたり、国家(男性サークル)と社会(女系的実体社会)が一体化しはじめると、プロテスタンティズム=資本による「世俗化」という説明でもいいのだが、いずれにせよ「男の脱エロス化」が進行する。この過程は、とにかくいったんは獲得していた「エロス的身体」をすべて「女性の身体」へと投射するという行為であった。女体の特殊エロス化は、近代においてはじまったのである。ひたすらに男性は「非エロス的」で、女性という「対象」の中にエロスを求めるように宿命づけられる。ここに女の対象(モノ)化があり、女性差別がはじまる。しかしそれはことの一面である。現在において、女性だけが「豊か」で「かっこよく」「元気がいい」理由は実は、フェミニズムによる女性の社会的地位の獲得などによるのではなく、単に女性がこの意味での「自らの優位性」を自覚してしまったということ以外にない。それは近代がはじまった時点ですでにひかれたレールだったのだ。以上は、今は遍在転生説の方が有名になってしまった渡辺恒夫氏「トランスジェンダーの文化」(勁草書房)の私による勝手な読みなのだが、これが現代の女性のエロス(そして男性の脆弱さ)をもっとも説得的に説明していると思わざるをえない。

私もすでに数年前に「意識のいろいろ」という駄文の中で「女装趣味者というのもいるのだが、女装趣味というのは単に「美しくなりたい」という欲望が高じたものである。美しい男というものはいるのだが、男が美しくなる「道」というかシステムというものは公式にはない。それゆえ走るというのが女装というものの真実なのである。」ということを書いた(オンラインひるます21号に再録。「意識の経験の学」シリーズの三部作である)。これは「女装」と「女の意識」は関係ない、ということを言いたかったのだが、今読むと勝手な理屈ではある(女性の意識がメインにある女装者のことが念頭にない。また「趣味者」というくくりがイヤらしい)。しかしここでいう「男が美しくなる道」というのが、かつてはあった「男性の自身の身体のエロス化」という道のことであることはいうまでもない。そしてそれが「公式には」消失してしまったのが、この現代という時代なのである。

というわけでやっと「エヴァ」にもどることにするが、私がいいたいのは、「聖母エヴァンゲリオン」で小谷氏が指摘している「自らの内なる女性性への直面」とか、「漏出する雌状無意識(ガイネーシス)」という考えは、以上をふまえた意味での「男の再エロス化」でなくてはならない、ということなのである。しかし男の再エロス化は、はたして可能なのだろうか。もちろん可能なのだが、なぜなら男はもともと女だったからだ。「雌状無意識」とは、この本を読む限りでは「女性的なもの(ガイネーシス)」を小谷氏が意図的に読み換えたもののようだが、なかなかいい用語である。似たようなものにユングの「アニマ」があるが、どうも毒気?がない。「雌」という文字に、身体的なレベルで加工される以前の「存在として女性性」にまで遡る根源的なものをイメージさせられる。そういうレベルで「男はもともと女」だというのである。

しかしこの「ガイネーシス」ってなんだ。当然、エヴァファンであれば「ガイナックス」を連想するではないか。小谷氏はなぜそれを連想しないのか? それはさておき、そのようなところまで制作者の(女性性に関する)意図が深いものだったとしたらどうだろう? その答えはここでいうのももったいないが、人類補完計画とは人類女性化計画のことだったということになるのだ。あるいは再エロス化計画といってもいい。もちろんこれは原始へもどれということではなく、エロス化された身体という強固な基盤の上に形成された(他人に依存しない・したがって支配もしない)精神をもつ「自立した人間」によって、はじめて意識的につくられた社会が形成される、ということを意味している。そういう意味においてのみこの「計画」は「社会革命」でもあるのだ。

とすればエヴァとは、そのような「女性化」「再エロス化」を行うためのテクノロジーの一部なのであって、シンジ君がパイロットに選ばれたのは「女になりたかった」からであり、トウジが使徒にのっとられるのは「女になりたくなかった、というかそもそもそんなこと(身体のエロス化のこと)考えもしないくらい男だったから」であり、アスカが精神崩壊するのは「女になりたくなかった(身体のエロス化を拒んだ)女」だったからだということになる。

本来であればここで「シンジ君が女になりたかった」という証拠を提示しなくてはならないところだが、それはこの結論を念頭に全編を回顧して頂ければ自然と納得されることではないかとも思う(エヴァ搭乗の際のコスチュームの「女性性」など。しかもシンジは完全に女性用のアスカのコスチュームを着たこともある)。ここでは、最終2話は、なぜあのように失敗しているのか、ということのみを指摘しておきたい。

それは結局は、この「補完」が「女性化」であり「再エロス化」であることを隠蔽するところからくる失敗だということだ。「人はひとりでは不安定なので補完が必要だ」というのは、ようするに「(とくに)男性という性は脆弱なものであるから、根源的な性(女性性=ガイネーシス)を復活させて補完する必要がある」ということである。しかし実際の補完(最終2話)では、徹底してシンジが近辺にいる「女性」たちの「意識」を模倣し(内面的に再解釈し)ていながら、しかしその根底にある「女性性」にはついにたどりつけなかったのである。あまりにも「意識」の表面的な事件性にとらわれたために、精神分析的な心理パターンをたどることで、「理解」してしまったための失敗であろう。ここでシンジは女性たちの心理パターンを理解しながら、ある意味では人間性の普遍性に「気付き」、自分もまた女性たちと同等に存在していいんだ、と解釈するのだが、それはいわば「表層意識」(といっても、根源的なガイネーシスに比した場合の「表層」であるから、ある程度は「深い」意識だったりはするのだが)の範囲を出ていないのだ。カオルの言を借りるならば、「ATフィールドの内部での出来事」にすぎない。

それにしても「失敗」しているにもかかわらず、なんでラストでみんな拍手しているのか?といったら、それは誰かがいった「自己改造セミナー」の比喩ではないが、この終わりが最終的なものではなく、何段階かあるステップ、たとえば初級コースとか中級コースとかの、そのステップの修了式みたいなものなのだ、ということであれば、説明はつくわけである(そしてまだ描かれていない最終段階でいよいよ自己の再エロス化という過程に入るのだと)。しかしさらに言えば、現実の作品世界では「補完(再エロス化)」が成功しているのに、それを描く表現のレベルにおいて失敗したのだ、という解釈も当然できるのである。ややこしいが、ここは、表現上の失敗ということに話を仮定して進めよう。ようするに庵野さんはひよったのだろう。ラストで主人公が女の子になってしまう、なんてことはちょっと恥ずかしくて描けなかったのだろう。

こうやって仮定してみると、あんがいあの最終2話の「学園ラブコメ」のシーンは意味ありげだと思えてくる。というのも、僕はずっとあのシーンにレイが出てくるのがおかしい、と思っていたのだ。というのも、母親が健全にくらしているのだから、そのクローンであるレイが「あの世界」に存在するはずはない、と。とすると、あのレイって何だ?ということになる。もちろん私の答えは明解で、あれはシンジだというものである。つまりあそこにシンジが出てくるからついつい見る側は、シンジという「主体」は連続しているのだ、と受けとってしまう。しかし、それではそれまでのエクソサイズがまったく無意味になってしまう。あのシーンでは誰でも自分でありうるという前提がまずあるのであって、こういう世界もアリだ、というのは、シュチュエーションの問題(ラブコメ的世界像)ではなく、意識が所属する主体(の恣意性)の問題ではないか。そして、そこにレイがいるはずがないにもかかわらず、いる、ということは、特にレイにおいて、当のシンジの意識が生きていると考えた方が、整合的なのではないか。しかも実はここではレイの性格のみが本編とまったく異なっているのである。したがって言うのももったいないが、あのレイの正体は「女の子になったシンジ」だということなのだ。

というわけで、ラストシーンで拍手で迎えられるのは、当然レイになったシンジなのであり、絵的にもそう描くべきだったのだ。はっきり言って顔はシンジのまま、髪型とコスチュームをレイに変えてしまえば、すべて決着していたのであり、映画版なんてなかったのである。しかしそれを監督の美意識が許さなかったのだとしたら、「なんとなさけない・・」ということである。とにもかくにも、私自身も一刻も早い人類の「補完」を願うものではあるのだから。


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