深夜映画の友

きょうも夜更かし映画が旨い。


呪怨Vシネ版(04.2.19)

やっと観ました。

まあ期待しまくった分、感想としてはフツーなんだけど、十分に楽しめはしました。
映画版1を先に観てしまうと、別にフツーだな、と思うのだが、ビデオを先に観た人は、映画がフツーだと思うようだ。
ようするにどっちを先に観たかの問題で、清水監督は、独特の怖さというものをコンスタントに表現しているだけ、とも言える。

まあその上であえて言うのだけど、やっぱ映画版にくらべると、Vシネ版 はぜんぜんダメだな〜と思う。とくにビデオ2は、前半は1と同じものの繰り返しだし、中盤にちょっと怖いところがあるものの、刑事神尾のエピソード以降はまったく怖くない、というよりテレビの心霊番組以下のひどい内容。

ネットで感想などをチェックしてみると、映画評論家の柳下毅一郎さんが、呪怨はここ十年ほどのJホラーの到達点と絶賛している。映画版についてはそうだろうが、ビデオもいっしょくたにして、「恐怖の完成は映画としての破綻を意味するのだ。『呪怨』はもはや映画とは言えない場所へ到達する。ジャンルを完成させるとはそういうことだ」とかっこいいことを言っている。 しかし、恐怖の完成と映画(物語)の破たんはぜんぜん関係のないことであって、むしろ映画版は物語としてまったく破たんしていない(恐怖の完成と映画としての完成が両立している!)ところがすごいんじゃないかと思う。

しかしかくいう私は、前回、呪怨映画版について書いたとき、それが物語がまったくないなどと書いていた。しかし、いまにしていうわけではないが、それは物語が破たんしているという意味はまったくなかったわけだ。そうなのだ。物語は「ない」が、破たんはしていない、むしろ、それは映画として首尾一貫した「コトワリ」とでもいうべきものに貫かれているので、観ている方としては、まったく違和感なしに、それをストーリーなき、映画的世界として感受することが可能だったわけだ。

前回と言ってることが逆のようだが、ようするに「純粋恐怖」なんてものはないのであって、映画である以上、それは背景としての「物語」というより、コトワリを必ず必要とする。問題は、それが意識しなくてもいいレベルでしっくりくるものになっているか、余計な「説明」に終始しているか、という映画技巧上の、あるいは製作思想上の違いということでしかない。柳下さんが、恐怖の完成=映画の破たん、を即ジャンルの完成、などというのは、あまりに強引、というか、ラフにすぎるレトリックだろう。

そんなわけで Vシネ版(とくに2)は、柳下さんの言うごとくに、恐怖描写が完成し、かつ物語が破たんしている作品ということになると思う。ただし、それはジャンルとしての完成、などと言うものではなく、単純に「失敗作」というべきものとしてのことだ…。そんなわけで Vシネ版(とくに2)は、柳下さんの言うごとくに、恐怖描写が完成し、かつ物語が破たんしている作品ということになると思う。ただし、それはジャンルとしての完成、などと言うものではなく、単純に「失敗作」というべきものとしてのことだ…。しかしまあ、そんなことは映画版を観ているから言えるのであって、これまでの怖い映画をゆうに凌駕してしまうレベルの「失敗作」ではあるわけだけど。

Vシネ版 を観ててわかるのは、ようするに、これを作るときは「まだストーリーというか、自分達がなにを描こうとしているのか」ということが、はっきり分かってなかったのだな、ということだ。そうなのだ。Vシネ版 1から2への展開というのは、よく見ると「ストーリーができていく過程」になっている。1はほぼストーリーがなく(それゆえ恐怖の断片を楽しむことに集中できる)、2はストーリーを創ろうとして、あまりにむき出しのストーリーを「そのまんま」出してしまっている。くわしくはネタバレになるので、別項にゆずるが、ようするに、むき出しのストーリーとは、余計な説明ということであり、まだ自分でもよく分かっていないので(笑)、映画の内的な論理(コトワリ)からは浮いてしまうため、映画としては、破たんする、そんなもんである。

とはいっても、このストーリーを模索しつつの、恐怖描写の完成があったればこそ、映画版の話ももちかけられたわけで、そういう意味で、Vシネ版 は、価値ある存在だということは言えるだろう。私はDVDについてる「コメンタリー(監督自身による裏話)」が大好きでよく聞くのだが、それによると、このVシネ版1・2は、なんと9日間ですべて撮影されたとのこと。それはこの業界での平均からみてどうなのかは知らないが、どうであれ偉業であることは間違いない。それが映画に結びつき、まさにホラーを完成させたということを考えると、この9日間は「歴史を変えた9日間」
といえるでしょう〜。

Vシネ版のネタバレ批評「呪怨」リローデッド!はこちら!


仄暗い水の底から(04.1.28)

呪怨2が見てえ、といってもDVD発売はまだ先なんだと。。
というわけで、ついつい何かホラーみたいな〜とビデオ屋に。
仕事の必要で会員になったのが運のつき…。借りるのってクセになるんだよな。料金も安いしな。
仕事ではクラシックな名画ばかり見てるので、その反動もあって、もお完璧に自分の好きなホラーやサイコスリラーばっか借りてます。
俺の借りたDVDを見たCUTIEくんは「病んでますね…」といった。

というわけで今回は「仄暗い水の底から」を見た。
中田秀夫監督です。
中田さんについてはいぜんホームページで「神だ!」と絶賛した。

それは間違いじゃなかったと思うけど、呪怨みたあとに、怖いモノを期待してみると、これ全然拍子抜けですのーー。

しかし映画としては超一級と思いました。
はっきり言って、普通のヒューマンなストーリーとして見て泣けます。原作は俺の大キライな鈴木光司 なんだけど(笑)これは監督がいいのだな。

人間とか社会の残酷さ、冷たさ、孤独さというものを中田監督はぐっと胸をしめつけるような演出で描いてく。しかし冷酷な人間社会を透徹に描けば描くほどに、それは「俺はわかってるよ」というような監督の優しさの視線のように感じられるのだ。

どうしようもなくはかなくて弱い孤独な女を黒木瞳が演じていてそれがまたいいのだ(この人、若いころはホント、へたくそな役者だったんだけどな〜)。

呪怨のときに、ホラーに物語はいらん、というようなことを書いたけど、そういう意味では中田監督はホラーの人ではないのだな。スティーブン・キングのような物語作家に近いのだろう。というわけで、それはそれとして期待するが、いまは呪怨2が見たいワタシであった。。。


呪怨(04.1.24)

この投稿はネタバレを含んでる可能性があるので、ご注意ください。。。

ぜんぜん怖くないっす。
なんたって血がふきとばない。
血を見るのがキライな私にとって、これほどすばらしいことはない。
一ケ所血まみれのジュオンが出てくるとこがあるけど、まあ、だらだら血がしたたるわけでもないし、たいして怖くないっすよ。ほんと。

怖くないっていっても、面白くないわけではなくって、これが面白いので、いろいろイヤがられつつも、人にすすめてるのです(笑)。

なにがいいっていうと、ストーリーがいい。ストーリーがいいっていっても、この映画、ほとんどストーリーないっす。ひたすら、ジュオンが人を呪い殺してくっていうか?
ある意味、救いようのないストーリー。なんのストーリーもなく、やみくもに人が死ぬ。死ぬっていうんだか、消える。
そこになんの説明もない。
というより物語がない。
「だからなんなんだ」「それでどうした」というのがいっさいないのだ。
説明というより、普通の映画ってのは、その超常現象なり心霊現象なりを「説明」しつつ、だからどうした、ということを物語として提示するもんでしょう。 つまり説明=物語が一体というかウラハラになってる。
しかし、呪怨では、ストーリー展開は映画だからして、当然のごとくにあるわけだけど、そこになんの物語もない。

つまらなそうだが、これが面白い。
なんでかっていうと、この手の心霊モノってのにおいては、説明=物語って、ようするに「宗教」でしかないわけじゃない?
誰もほんとの霊魂の世界なんて知らないわけだし(笑)。そういうのは特殊な宗教的な世界観の中でしか「説明」ができないことになる。
そうすると、物語がはじまると、そこに説明がでてきて、それは必然的に宗教になってしまう。宗教といわなくても、うさんくさい疑似科学みたいなものになる。
それが出てくると、とたんにしらけるんだよな。
ドキドキしながら心霊番組みてたら、そこに霊能者とか、つのだじろう、新倉イワオが出てきて、つまんねぇ。。と思った方は多いだろう。
それだ。
私も哲学者のはしくれ、そんなヤワな宗教的説明になっとくするわけはないが、別に哲学者でなくても、そんな説明はつまんないと思うでしょう。

というわけで、お分かりでしょう。
この呪怨は、そういったヤボな説明がないのだ。しらける間もなくドキドキするストーリーをみせられ(怖くはないんですよ、ほんと)一気にラストまでいってしまう。。
こういうのこそ幸福なホラーというべきものではないでしょうか。。


ダーク・ハーフ(01.9.3)

ひさびさに徹夜仕事で、かたわらに深夜映画を見たのだ。
スティーブン・キングの「ダーク・ハーフ」。
ハーフっていうとニューハーフを連想してしまうので(なんのこっちゃ)なんか変なタイトルだと思ったが、全編これマジっ?って感じでギャグとしか思えない展開。ラストなんか超ご都合主義で、爆笑の嵐だった。
監督は我が神ロメロなんで、それなりに雰囲気あるコワイ映像なのだが、こちら、片手間で見てるので、ほとんど声(音声)しか聞いてない(笑)。20パーセントしか映像は見てないのではないだろ〜か。
それにしてもこのストーリー、キングの実人生そのままに、別名義で発表した小説が売れたけど、それがバレちゃったので、その別名義を抹殺しようとしたら、その別名義が現実の人格となって現れて復讐を始める…というもの。
なんか身につまされる話ではある(どこがじゃ?)。
ワシも「ダーク・ニューハーフ」って小説書こうかちら。


内海の輪/影の車(1998.1)

【ひるますの「臨場哲学」16号に再録してたのをまたこのコーナー復活にあたってこちらに転載しました。】

これは「内海の輪」と「影の車」という別の作品で、いずれも松本清張原作の映画化。そして岩下志麻主演ということで、並べてみた。いずれもすごい昔の映画だ。志麻さんは20代ではないかと思う。

志麻ねえさんというと、「ゴクツマ」になってしまった。その前は、母子相姦とかオナニーシーンとかも有名になった。きわどい女優である。しかしこの二本の昔の映画を観ると、純粋にこの人の「色気」に感動してしまう。考えてみると、こーゆう色気をもった女優はいまはいない。こーゆう「色気」というものが、すでに過去のものになってしまったということなのだろうか。しかし、「こーゆう色気」といっても観てない人には分からないだろう。こーゆう色気というのは、性的に解放されていない社会で、抑圧されていながらも、なお滲み出てくる色気。しかも、それは文化的な様式(美)のようなものに昇華されるのではなく、あくまであからさまに「性」を感じさせるものとして滲み出てしまうもの、といったらぴったりくるだろうか。

ちなみに私の近所のイエモン(ザ・イエローモンキー)ファンの間では、ボーカルの吉井和哉さんと志麻さんがそっくりだという説が流布している。骨格がどうのということもあるだろうが、やはり「色気」、それも「性」を感じさせる色気というところが共通しているためではないだろうか。

「内海の輪」は、若いときの中尾彬がでてる。今の姿からは考えられないが、超二枚目だ。三国連太郎が志麻さんの亭主で、志麻さんは中尾彬との不倫に走り、破滅していくという内容だが、破滅の仕方がもう今では考えられないほど、「可愛らしい」もので、子供じみている。しかし古くさい映像で、当時の状況として映し出されると妙にリアリティを感じるから不思議だ。亭主の三国さんがやたら「ものわかりのいい」亭主で、そんなにものわかりがよかったら不倫ドラマなんて成り立たないはずのところだが、そういうところに「思いこみ」でドラマがつくられていくという、奇妙なすれちがい、偶発性、そして起きた事件の無意味さ、こういうものがいかにも「清張らしい」。

「影の車」は、加藤剛と志麻さんの不倫もの。こんどは加藤剛が家庭を裏切るという役回り。志麻さんは、子どもがいる未亡人という設定で、加藤にしきりとモーションをかけ、子どものいる家庭に加藤を誘い込む。子どもを寝かしつけて、エッチするという貧乏くささと緊張感がこの映画の見所か。加藤のトラウマ描写はなんかとってつけた感じであまり面白くなかった。


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