臓器移植法の語らい(3)

雑談掲示板(現在閉鎖中)の過去ログを投稿順に編集したものです(「上の投稿」「下の書き込み」などの上下表記のみ修正してあります)。
00.12.31―


自己決定権について 投稿者:てるてる  投稿日:12月31日(日)03時49分03秒

自己決定権について、非常に考えさせられる論文に遭遇しましたので、御紹介します。
これは、USAで、全身おおやけどの重傷を負い、「死なせてください」と頼んだ男性の
話です。非常に有能で熱心な医師達の治療や、その地域でもともとやけどの治療の研究
が進んでいたこと、事故の原因となった会社が賠償金を支払ったこと、そして、患者の
母親が患者の生を強く望んだことにより、治療は続けられました。それは、非常に苦痛
を伴うものでした。男性は、明晰な意識と判断力と力強い声で何度も「死なせてくださ
い」と主張しました。彼自身の承諾により、彼は精神科医のインタビューを受け、その
ときのビデオは医療倫理の研究者たちに公開されました。

10年後、彼は、整形手術そのほかの治療を受け、外見も身体機能もかなり改善し、結婚
し、仕事をし、精力的に生きています。彼は、あのとき死ななかったからこそ、今、生
きていることを実感しています。しかし、それでも、あのときの自分の「死なせてくだ
さい」という判断は正しく、それが聞き入れられなかった悲しみと苦しみは消えない、
といいます。
彼にとって、最も支えになったのは、勤務時間が過ぎることもいとわず、彼のベッドの
そばで彼の苦しみに共感し、慰め、励ましてくれた看護婦さんたちだったとのことです。

http://kenko.human.waseda.ac.jp/rihito/lichtseminar_2-j.html


倫理と矜持 投稿者:ひるます  投稿日: 1月 8日(月)17時19分57秒

さっそくに、てるてるさんから新たな問題提起をいただいてますが、まずは2世紀にわたって足掛けになる、なみへいさんへのレスから。

柄谷さんの倫理定義からは、はずれるかもしれないけど、私としては倫理が相手にするのが「共通のルールを持ちえない他者」とするとちょっと違和感がある。むしろ「共通のルールを持ちうるかどうか分からない他者」と言うべきなのではないか、ということ。

たしかに私も柄谷の「常に否定として現れる他者」という言い方には共鳴していて、常に否定として現れるんだったら、共通のルールなんか「持ちえない」他者に決まっている。しかしそれは常に何事かを創造し、提案し、共有しようという努力や運動のウチにあって、常にそれを否定する契機として現れる「極点」のようなものではないか、と私は思ってる。私が「永続的な配慮」という言い方をするのは、そういう運動性を表現したいわけですね。つまり、それをあらかじめ「持ちえない他者」というスタティックなものとして考えてしまっては、そもそも倫理的ということが不可能ではないか、と思う。

奇しくも柄谷さん自身、その「他者」とカントの「物自体」を重ね合わせて語ってるところが『倫理21』の中にもあったけど、「物自体」は不可知(知りえない)であると言い切ると、なぜ「知りえない」ことを「知りえている」のかという矛盾に陥る…なんてことがよく「哲学」では話題になったりする。そういう意味では「持ちえない」ということも、なぜにあらかじめ知りうるのか?というふうにも言える。それは言葉遊びみたいなものだが、むしろ柄谷が「他者」を「物自体」になぞらえてるところでは、それを「知りえない」というスタティックな相においてではなく、常に否定として現れるというような運動性の相において語っていたので、私としては共感して読んだところだった。

それは(定義的な問題でもあるので)ともかくとして、もうイッコ、ずっと気にかかっているのは、私の言う「倫理」が二つのレベルのことを常にごっちゃにしていってるので、これがまた混乱を招いてるのではないかってこと。つまり
「提供者が、自分の臓器提供を倫理的判断において決定する」
という次元と、
「そのような行為が行われることを我々が倫理的判断として社会的に合意する」
という次元の別ね。

共通のルールを創造しようという努力はあくまで後者の次元の問題で、前者はそうではない。前者はむしろ結果的にはまちがいかもしれない行為を自分の責任において引き受ける、という実存の問題なのであって、なんら「共有」を求め(続け)るものではない。運動性としては、ひとつの「ケリ」をつける行為ということ。ただし、それは行為それ自体において、その行為が「正しいかどうか」を「公」に向かって問いかけているという意味では、「他者」にむけて開かれた行為ではある。さらに前者は後者と関係ないわけではなく、それが社会的に行われる行為である以上、後者を前提にしなくては可能にならない、という問題だということ。この点、私が「アラユル倫理的行為」が、共有のルールに至らねばならないと考えているわけではまったくない、ということを強調しておきたい。

そう考えると面白いのは、前者においても、問題にしている「他者」とは、誰でもない他者、「公」としての他者なのであって、被提供者個人なのではないってことですね。被提供者は埒外におかれている。おそらく、「被提供者の欲望」をあえて問題にすることがないのは、この実存のレベルに定位して考えるからでしょう。下世話に言えば、危急の時にあたって自己の実存において救済をなそうという者は、相手がどういう魂胆をもってるかなど詮索はしないってことですよね。その相手が、たとえば池田清彦さんが語るような、何がなんでも人の臓器をもらって生きたい、それが当然の権利だなどと考え、臓器が無駄に捨てられていくことに憤慨しているような「あさましい」人間であるならば、その人への提供はしない、などということはありえない。そういう事は問題にしないし、条件にもしないのが、実存における倫理的判断であるわけです。それは倫理という以上に「矜持」という問題でしょうか。

あえてそういうことを言ってみるのは、逆に後者−社会的合意のレベル−では、やはり「被提供者の欲望」は問題にされなくてはならない、と考えるからですね。もちろん「そういう欲望を持ってはならぬ」と法的に規制せよなんていうのでは、まったくなく、基本的には、やはりそれは「当然の権利なのではないのだ」ということが明記されなくてはならないのではないか、と思う。それは、ギリギリの、暫定的な選択として社会が許容しているに過ぎないということと、そうであることによってウラハラに先の論考で触れた「倫理性を担保する」ってことにも繋がるものだと思うところです。


「自己決定権について」の続編 投稿者:てるてる  投稿日: 1月 9日(火)22時04分26秒

「自己決定権について 投稿者:てるてる  投稿日:12月31日(日)03時49分03秒」は、
USAのおおやけどの患者の事例だけを書いていますが、森岡メイン掲示板で、これと、
UKの心臓移植の患者の事例と両方とりあげて、自己決定権について考えたことを書いて
います。いわば、こちらでの書き込みの続編ですので、読んでいただけたら幸いです。
「二つの事例(1) 投稿者:てるてる  投稿日: 1月 2日(火)16時28分41秒」
「二つの事例(2) 投稿者:てるてる  投稿日: 1月 2日(火)16時29分47秒」

http://www.tcup3.com/322/lifestudies.html


中央公論 投稿者:ひるます  投稿日: 1月13日(土)16時20分11秒

森岡さんの論文読もうと中央公論見たら(遅せ〜)、なんと斎藤環さんも「ひきこもり」について書いてるじゃありませんか。これは買いですね〜(なんかこの掲示板の話題からはズレてますが…)。
さらにぴっくりしたのは、先日于論茶さんから松井孝典さんの『一万年目の人間圏』って本を紹介してもらったんですが、その松井さんが連続対談で登場しているではあ〜りませんか。
ってわけで、これらについてはまた後日。


町野案に反対するメールを議員に送る運動 投稿者:てるてる  投稿日: 1月14日(日)17時21分16秒


森岡サイトの参加者の一人が、厚生省の研究班による臓器移植法改正案(町野案)に
反対するメールを、国会議員に送る運動を始めています。
まだそのためのホームページを開いたばかりですが、興味のある方は御覧ください。
そして、できれば、メール送付に御参加ください。
以下は、サイトの管理人本人の宣伝文です。
        ↓
臓器移植法改正案に反対するメールを国会議員に送ろう、という企画
を立てています。まだ工事中ですが、HPをつくりましたので、URLを入れて
おきます。

企画参加者を募集します。
議員ひとりあたり、30人以上のメールを届けたいと考えています。
みなさん、どうぞ、ご参加下さい。(協働してくれる人歓迎)
いつ送信するのかなど、日程は未定です。

   http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/4182/

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/4182/


脳死・臓器移植を考える議員の会 投稿者:てるてる  投稿日: 1月16日(火)21時27分58秒

『「脳死を人の死」としない立場から脳死・臓器移植を考える議員の会』の趣旨説明
と議員のリストの載っているウェッブページがあります。↓

この脳死・臓器移植を考える議員の会は、電子メールで情報配信をするそうなので、
興味のある方は、配信希望のメールを送ってみてはどうでしょうか。
たくさんの人が配信希望をしたほうが、それだけ多くの人が注目しているのだ、と
いうことがわかって、議員の会の活動にもはずみがつくと思います。

http://www.v-net.ne.jp/~pikaia/ginnokai.htm


ごぶさたの… 投稿者:ひるます  投稿日: 1月23日(火)10時02分05秒

ここもごぶさたしてしまっております>怠惰な管理人
てるてるさんの自己決定権問題に関してレスしようと思っててなかなか
筆が進まずにいるうちに、森岡掲示板、黒猫掲示板などで、いろいろと
議論が進んでて、それもあまりフォローできてないのです。
まあここはここのまたひと味ちがった文脈というもんがあるので、
近々に投稿しますので、しばしおまちを〜。

さて、この掲示板でも何度か話題に出てる竹田青嗣さんですが、
加藤典洋(カトノリ)氏、橋爪氏との共著『天皇の戦争責任』
に関して、オンラインブックストアbk1でインタビューが掲載され
ておりますので、ぜひご覧ください。

天皇の戦争責任というとワシらの世代でさえあまりリアリティを
持てない話題だが(とくに昭和天皇が亡くなってからはそうでしょう)
この本は「民主主義」ということをキチンと考える本でもあるので
かなりタメになりそうだ。
このインタビューしてる宮島理さんってライターも面白い人みたいね。

http://www.bk1.co.jp/


自己決定権を考える1 投稿者:ひるます  投稿日: 2月 1日(木)10時05分25秒

てるてるさんのおっしゃる自己決定権の「わからなさ」だけど、私にはほとんどピンと来ない。というかあげられている事例について、ではどう考えるかと言えば「たしかに難しいことだ」と思うけど、それが「自己決定権というもののわからなさ」とはまったく思えないってことですね。

この相違は、これまでの人格権をめぐる議論でもずーっと通奏低音として流れてきてはいたわけで、この機会にそれをクローズアップしてみるのも面白いかな?と思います。ようするにてるてるさんにあっては「権利」というものが、非常に実体的なものとして信じられているのではないかと思います。私としては「権利」なるものは、きわめてヴァーチャルなものであって、ただ「社会的合意」という文脈においてのみリアルなものとして扱われるにすぎない、ということでしょうか。

具体的に言えば、それぞれの人間には生まれながらにして〜する権利が備わっているとするのが、てるてるさんの考え方だとすると、「〜する」ことは(権利と言えるほどには)まっとうなこととして社会的に合意されているにすぎない、とするのが私の考え方。これは法哲学上の対立というやっかいなことになるかもしれないけど、現実的な問題として、まさにてるてるさんがあげられた事例のごとく、人の「〜すること」というのは、具体的な場面の様々な文脈の中で、様々な意味あいを持ち、その都度その都度評価されるしかないというところがあり、まったく先験的に「〜する権利」なるものが備わっていると考えること自体に無理がある。

臓器移植の論考でも、
>「〜権」があるから(ないから)〜だ、と言ってみても、原理的な(倫理学的な)思考としては意味がない。
と書いた。「〜すること」に相応の権利(まっとうさ)があると主張したいのであれば、そのコトのその文脈に於けるまっとうさを説得的に(合意に至るように)説明すべきであって、のっけから「〜権がある」と言ってもダメだっていうようなことは、これまでもここで言ってきたことです。「〜権があるから、〜できる」というのは、それこそ物象化的転倒ってやつでしょう。

ようするに「権利」というのは、象徴レベルにおけるヨリドコロ(=言語体系)なのであって、それ自体が何かモノゴトの「根拠」になるようなものではない。ただそれはそれをヨリドコロにしてモノゴトのまっとうさを納得・説得するには不可欠の契機だと言える。「善そのもの(善のイデア)」はどこにも具体的なモノとしては存在しないが、善さという観念なしに我々は、何が善いことなのかという共通了解に達し得ない…というのと同型ですね。象徴レイヤーなんですよ(ヘッドライン38参照)。

そういう観点からすれば、死の自己決定「権」なるものが、普遍的・不可侵的に存在などするはずがないのであって、ある人が死を自己決定するということについて、様々な状況に応じて合意できるかどうかが異なってきて当然でしょう。てるてるさんのあげられた事例が「問題としては難しい」けれども、それは自己決定権のわからなさなどとは関係ないというのはそういうことです。
(つづく)


自己決定権を考える2 投稿者:ひるます  投稿日: 2月 1日(木)10時06分21秒

(前の投稿よりつづく)

この事例では、脳死臓器移植というこれまでのテーマからはずれて安楽死・尊厳死ということが問題になっているので、簡単にすますわけにもいかないのだが、私としては、こういう医療の局面で「権利」ということを言うのであれば、まずは
「人は誰でも、十分な知識と経験をもった医療集団による親切な医療を受ける権利がある」
ということを言わねばならないと思う。
十分な医療が受けられないようなところで、てるてるさんがあげた事例を持ち出しても単なる贅沢なお話だろうし、医療の側がそのようなレベルになければ、そもそも自己決定せよといっても単なる医療の責任放棄でしかないでしょう。つまり、人がそのように十分な医療を受けられるような状況でなければ、死の自己決定(権)など議論しても意味はないと思う。
「十分な知識・経験と親切な心」という三組元素は、神庭重信さんが『こころと体の対話』(文春新書)の中で医療(医師)に対する信頼回復のために提言していることで、これが全部そろわなきゃならないってところが大事。つまり医者は「日々、「正義」の実現をめがける者」であれ、と言ってるに等しい。
(↓この本については「臨場哲学30号」)
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/WEBZIN/hirumas30.html#0704

つまりそのような医療を受ける「権利」の対として、医師の側はそのような存在、ようするに「日々、「正義」の実現をめがける者」であれという義務がある。それは医師は「倫理的な存在」だということである。ここでいう「倫理」は言うまでもなく、ここでこれまで繰り返してきた意味あいでの「倫理」ってこと。
つまりなんらかの致命的な救助に際して、世間的(共同体的)な合意に基づいてではなく、自己の知と技能において、可能な限り「善い」状況をめがけて、自らに責任を引き受け、判断し行為する者ということだ。
十分な知識と経験のない医師にそのような責任を引き受けつつ決断するということができるわけがないが、素人の患者にはもっとできるハズもない。ここに医療における自己決定ということの滅茶苦茶さがある。一か八かじゃあるまいし…。ようするに上記のような意味での「医療環境」が形成されているといことが第一条件であり、その中で様々な自己決定なり自己表明の契機はある(オプション)ということでしょう。


閑話休題 投稿者:ひるます  投稿日: 2月26日(月)13時20分13秒

この掲示板もほとんど死んでますが、そろそろ臓器移植の話題も
打ち止めってとこでしょうか。森岡案も離陸したようで、後は見送る
ばかりなり…って感じですか。

でもせっかく「倫理」って問題がテーマになったわけですから、
ここらへんをもちっとつなげていきたいとこではあります。
トップページのコラムは伊丹堂にまかせて(笑)、私はこっぢで
ちょこちょこ書くかなぁ。

まあ、もともとここは「雑談」掲示板なので、そういうテーマに
こだわらず、投稿よろしくお願いいたします。


倫理・道徳にまつわる近況 投稿者:神名龍子  投稿日: 2月26日(月)22時51分30秒

 何の因果か、哲学の講座で「道徳」の本質直観というお題を頂いてしまいました。
今週末に発表予定ですので、その後(つまり来週以降)に自分のHPにも掲載しようと
考えています。

 ちなみに私の考察のキーワードは他者からの「承認」。この「承認」というテーマ、
これまでの私の(種種雑多な)考察をまとめる軸のような役割を果たしてくれそうな
予感があって、これから当分の間、「承認」の問題に懸かりきりになりそうです。

http://www.NetLaputa.ne.jp/~eonw/


倫理と共同性 投稿者:ひるます  投稿日: 2月28日(水)14時59分14秒

神名さん、さっそくにありがとうございます。
道徳、倫理、承認というテーマの今後の展開に期待してます。
たまたま昨日、読売の論壇時評みたいなので、今月の『論座』で我らが(笑)
斉藤環さんと、13歳論の村瀬学氏が、個人の成長と共同体という問題で
語ってるというのを知りました。まだ読んでませんが、いずれもこれまでの
議論の中で微妙にふれてきたメンツで、ここでの問題とも絡んできそうで
面白いと思ってます。
ここでの議論でも後半にいたって、なみへいさんの発言から「共同性」という
テーマが浮上してきたとこでした。神名さんのテーマ、承認ということとも
絡んでくると思います。
そこらへん、これからちと考えてみたいと思ってます。


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