臓器移植法の語らい(2)

雑談掲示板(現在閉鎖中)の過去ログを投稿順に編集したものです(「上の投稿」「下の書き込み」などの上下表記のみ修正してあります)。
00.11.24―00.12.28


問題の整理 投稿者:ひるます  投稿日:11月24日(金)17時12分36秒

さて、てるてるさん。
かなり話が堂々めぐりになってるようですので、ちょっと論点整理をさせていただきます。

私がいっているのは、家族が「死に逝く人に対してその人の気持ちを傷つける権利」を持っているだとか、「臓器提供させない権利」があるだとかいうことではありません。何がなんでも家族の意思なり欲望が優先されるということではない、とそもそもの最初から申し上げているわけです。ましてやそれがなぜ家族の同意だけで摘出可能になるということに繋がるのでしょうか(私は「臓器提供は本人の倫理的判断によってのみ可能」という文脈において、家族は「非―倫理的」でもいいと言っているのであって、本人に対して極悪非道であっていいという文脈で言っているのではありません)。

拒否権者の話にしても、前回の私の投稿の冒頭で、二人称的なつながりのある人が拒否できるということであれば、原理的には同じことであって争点にはならないということを言っております。これも、つまりは「家族」ということに、なにがなんでも私がこだっているというわけでもなく、「家族」を根拠にしてものを考えているということではないということです(あと「自分の身体・生命は家族のものである」なんてことも、どっからも出てきませんよね)。

繰り返しますが、私が問題にしているのは、それに対抗している側の「人格権の行使」の正当性(まっとうさ)そのものです。それはてるてる案の根幹にかかわる問題であって、そこで正面衝突(笑)しても、説得はむずかしかろうという話はすでにしましたが、だからといって「本人の意思vs家族」という図式に問題をハメ込んでもしょうがないと思います。家族の権限をいくら否定してみても、本人の意思のまっとうさが明らかになるというものではないですから(この点、「家族の機能と権限の限界を定めてこそ、家族の承諾のみによる臓器提供の禁止を強く主張できる」というのもスジ違いの論理だと思います。本人の意思なしで提供できるとする町野案は、家族の権限をその根拠にしているのではなく、本人の(生まれながらの!)自己決定を根拠にしているのですから)。

いずれにしても、てるてる案が、公共的に合意されたものになるためには、てるてるさんは、「人格権があるから摘出できる」というのではなくて、それ(摘出)が、人格権の行使と呼べるほどにまっとうなものであることの「根拠」を説明された方がいいと思いますが、どうでしょうか。つまり「自分がつくりだしたわけでもなく、完全に知り尽くしたわけでも、コントロールしつくせるわけでもない生命」を「自分のモノ」として処分できる(しかも「まちがいを犯している可能性」があるにもかかわらず、それを為していい)、ということを多くの人が「なるほどそれはもっともだ」と納得しうるように説明する、ということです。

ちなみに、この「まちがうことの可能性」ですが、てるてるさんはその可能性をたいせつにしたいとおっしゃる。間違える可能性もあるが権利はある、というのは、まさに「自己決定権(論)」と同型なのですが、そこで想定されている「まちがい」「失敗」「リスク」というのは、ようするに「自分」が失敗によって損害を被る可能性であり、他者になんらかの損害を与えてそれを「自分」が賠償しなくてはならなくなる可能性ということであり、ようするにその結果責任を当の本人がとらなくてはならないということであって、これはいわば「身から出たサビ」という単なる当たり前のことなわけです(株で失敗したとか、漫画家をめざして極貧に陥ったとか←私ですね)。

しかし脳死の人からの臓器摘出において想定される「まちがい」とは、そういうものではないのです。死の文化の破壊、ということも言われますが、私としてはやはり「自分の身体・生命は自分のものではない」ということとウラハラのこととして、この世の「生命のあり方・なりたち」そのもの(個々の命ということを超えたもの)に対する重大な侵害があると考えるものです。おそらくてるてるさんはこれも認めないでしょうが…。ただてるてるさんが「認めようと認めまいと」このような感覚は、かなりに多くの人が心のどこかに引っかけているだろう共通の感覚であると私は考えています。

このように単に自分が自己責任において間違い、損害を被るというに留まらず、この世に対して重大な侵害を犯す可能性のあることを「自己決定権」によって正当化することはできないと思います。しかしだからといって、他の選択肢が「臓器移植禁止法」しかないというのではなく、(権利として正当化するのではなく)ぎりぎり「許す」という道をとろうというのが、私の立場です。その微妙さをご理解の上で次の投稿をいただければと思います。


ひるますさんへ 投稿者:てるてる  投稿日:11月24日(金)18時31分18秒

>私は「臓器提供は本人の倫理的判断によってのみ可能」という文脈において、
>家族は「非―倫理的」でもいいと言っている

私も、家族が個人の名義で個人の責任でもって臓器提供希望者の意思を否定するのなら
ば、それを認めております。ただし、臓器提供希望者自身が、そのひとの拒否権を認め
ていることが条件です。
ところで、本人の倫理的判断というのは、本人の人格権の行使なのだと思いますが…

>それ(摘出)が、人格権の行使と呼べるほどにまっとうなものであることの「根拠」

人格権の行使としての条件にあてはまるときのみ、移植のための臓器の摘出が許される
としています。臓器の摘出ならばなんでも人格権の行使と呼べるわけではありません。

>しかし脳死の人からの臓器摘出において想定される「まちがい」とは、そういうもの
>ではないのです。死の文化の破壊、ということも言われますが、私としてはやはり
>「自分の身体・生命は自分のものではない」ということとウラハラのこととして、
>この世の「生命のあり方・なりたち」そのもの(個々の命ということを超えたもの)
>に対する重大な侵害があると考えるものです。おそらくてるてるさんはこれも認めない
>でしょうが…。ただてるてるさんが「認めようと認めまいと」このような感覚は、
>かなりに多くの人が心のどこかに引っかけているだろう共通の感覚であると
>私は考えています。

その多くの方々は、御自身のからだについては、臓器提供しなければいいし、移植手術
を受けなければよろしいと思います。しかし、その方々の御家族が臓器提供したり移植
手術を受けたりするのを拒否する権利が無条件にあるわけではありません。

>このように単に自分が自己責任において間違い、損害を被るというに留まらず、
>この世に対して重大な侵害を犯す可能性のあることを「自己決定権」によって
>正当化することはできないと思います。

それほど重大な侵害を犯すのならば、なにゆえ、家族が同意すればそれが許される
のでしょうか。家族も共犯者になるだけだと思います。

ひるますさんがおっしゃる侵害とは、家族の気持ちを傷つける、ということなので
しょうか。それとも、家族の気持ちを傷つけるということに比べたら小さいことだ
が、社会全体や人間の歴史全体に対して何か罪を犯すということでしょうか。もし
後者だとすると、移植手術を受ける人の立場はどうなるのでしょうか。


根拠 投稿者:てるてる  投稿日:11月24日(金)19時06分18秒

>「自分がつくりだしたわけでもなく、完全に知り尽くしたわけでも、
>コントロールしつくせるわけでもない生命」を「自分のモノ」として処分できる
>(しかも「まちがいを犯している可能性」があるにもかかわらず、それを為していい)

それこそ倫理的にいって、本人の他に、決定を下すことができる人がいないからです。

脳死状態になったとき、いかにしてその状態を終えるか、というような事柄について、
本人の意思表示がないならば、治療の中止や続行についての決定は、その人を看取って
いるひとが下してもいいでしょう。しかし、臓器提供などということは、誰も決めては
ならない。
ここは、ひるますさんにも同意いただけると思います。

本人の意思表示があるならば、治療の中止や続行については、本人の決定に従わなけれ
ばならない。まあ、なんらかの事情によってそのとおりにできない場合もあるでしょう
が、それはしかたがないと思います。

そして、臓器提供は、本人の意思表示があれば、それをすることができる。

それを他の人が止めるということは、本人自身のため、たとえば医者の治療に不満や
疑問があるとか、いうような場合は、やってよろしいが、そうでないならば、極力、
避けるべきである。
本人以外の人の価値観や人生観を本人の自己決定よりも優先してはならない。
他にも、なんらかのやむをえない事情があって中止するのはしかたありません。

ひるますさんや多くの方が、臓器移植そのものが人類の歴史や文化に対する重大な罪
であると思われるのであれば、それはそれで認めます。
私とても全然疑問がないわけではありません。
やらなければそれにこしたことはないと思います。
しかし、だれかが、自分が死ぬときに、あらゆる疑問や弊害を認識したうえで、それ
でも他者の救命に役立つならば自分の臓器を提供してもよいと、意思表示をしている
ならば、それを、他の人が、家族であれなんであれ、自分は移植医療そのものへの疑問
が氷解していないから差し止める、というのは越権行為であると思います。


「倫理」について 投稿者:神名龍子  投稿日:11月24日(金)21時17分59秒

 お話がだいぶ進んでしまったところで申し訳ないのですが、ひるますさんに「倫理」と「身体の他者性」の2つのテーマについて確認させてください。まず「倫理」からです。

 ひるますさんの「倫理」はおおよそ判ったように思えるのですが、私の感覚では「小浜さん・竹田さんの考えと互換的」というよりは、カントのそれに近いように思えます。というのは私の理解では、モチーフを除外すると、おそらく竹田さんの「倫理」はその根拠を失ってしまうと思うからです。

 竹田さんの場合の「倫理」では、「他人を目的として」というより、関係の「よい」(関係をエロス)を根底においていて、したがって、倫理は自分の外側に固定されたものでないことはもちろん、自己の内側においても固定されない、相手の反応によってそのつど編み変えられて内面化されるものになっていると思うんです。だから、相手(との関係)によって態度が異なるということもありえると思うのですが、そういう条件をはずして「誰に対しても」という普遍性を求めると、カントのような人倫・道徳になるわけです。

 しかし実は、倫理的行為を自発的に意思するという事自体が、普遍性を持っていなくて(現実に誰もがそうするわけではなくて)、そこがカントの道徳哲学の弱点になっています。いいかえれば、人々が自発的に倫理的であるための具体的条件は何かという事を提示する必要が出てくるのですが、モチーフを除外すると、その部分が欠けてしまう。そうすると思想としては弱くなってしまうわけで、竹田さんや小浜さんの「倫理」には、そういったカントの思想の弱点の克服という側面があると思うんですね。

 もうひとつは、「関係」という概念を倫理の根底に置くことの意味は、自分の倫理を単に自己の主観的なものに留めるのではなくて、相手の反応によって確かめ直し、編み変えることが出来るという点にあります。それによって、ひるますさんのおっしゃる「『ひとりよがり』に終わるという可能性」を出来るだけ小さく出来る、そのための筋道を持つわけです。またこの事は、利害の調整にも不可欠な態度だと思います。

 もちろん、相手の反応を参考に自己の倫理を編み変える事も、(自分の内面での作業ですから)現象学的には「ひとりよがり」の可能性をゼロに出来る保証はありません。ですが、私達はそうした作業によって、少なくとも「ひとりよがり」の可能性をより小さくする事は出来るという確信を抱いていると思います(これが不可能だとしたら、そもそもあらゆるコミュニケーションが不可能だという話になってしまいます)。

 それで最終的に何が言いたいかというと、あまり倫理に普遍性を求めすぎても、現実には利害の対立と同様に「倫理・対・倫理」の対立が起こるという事です。臓器提供をすれば家族を悲しませる、しかしそうしなければ誰かが死んでしまうという時にもそういう構造があって、倫理を基準にする限り決着のつかない問題の立て方になってしまうと思うんですね。そういう場合、倫理を話の前提として置くのではなくて、倫理の前提を考える事が必要になります。

 私の考えでは、倫理の本質が関係における「よい」だとして、その関係の方を前提に考えたらどうかと思います。家族と良い関係作れて、本人がそれを大事だと思うならば(そして家族が反対するならば)臓器提供はしないと思うでしょうし、家族との関係が険悪なものになっていて、家族に対して感じる「義」よりも臓器提供を受ける人の生命を大切にしたいと思う自分の「義」の方が大事だと思ったら臓器提供する。これはある意味では「自己決定」なのですが、その自己決定にあたって自分と周囲(家族や友人)との関係も繰り込んだ上で判断されている、という事です。

 この場合「家族」についても、「それはよい関係であるべきだ」とか「よい関係であるはずだ」という家族神話のようなものをテーゼに置くのではなくて、「よい関係でありたければそのように努力すべきだ」ということになります。ですが現実には、そういう動機が持てない状況にあるとか、そうしたいけれども失敗したという人もいるわけで、判断の根拠は当為としての「家族」ではなくて、その人が置かれている現実の状況ではないか思います。つまり当人が家族に対してどのような感情を抱いているかという事が問題の核で、それがあまりよいものでないとしたら、その責任は多かれ少なかれ、家族の側にもあるわけです。

 私の印象でいうと、家族とよい関係が保たれている場合には、ひるますさんの主張はかなり妥当性があると思います。しかしそういう条件にない人の場合には、「外部」からの倫理(家族とはよい関係であるはずだ)を持ち込まないと実現が難しいように思えたのですが、いかがでしょうか。

http://www.NetLaputa.ne.jp/~eonw/


「身体の他者性」について 投稿者:神名龍子  投稿日:11月24日(金)21時19分21秒

 上の書き込みに続いて、次に「身体の他者性」についてです。

 「自分の身体・生命は自分のものではない」という事なんですが、確かに「身体」の本質直観をすると、その中には「他者性」という概念が含まれている事が判ります。ですが、この「他者性」というのは具体的には、スポーツなどで身体が必ずしも自分のイメージ通りに動かないとか、そういう事を指しているわけで、それと身体(生命)の「不可侵性」という考え方との間には、ちょっと距離があるのではないかという気がしました。

 というのは、自己の身体に対して他者性を感じるというのは、「人格を備えた他者」を感じるという事とは違うのではないかと思うわけです。そうすると、身体(や生命)が「他者」として現れて、それを「不可侵なもの」と感じるという、この「不可侵」とは、何に対して「侵害を行ない得ないこと」なのかという疑問が出てきます。「身体それ自体」に対してではないし、仮にここで、身体や生命の背後に神や、生命の源としての自然といった超越項を置くとすれば神学の方向に進んでしまいます。

 近代哲学では「自分の生命なり身体がどこから来たか」というような超越項に対する問いは除外されていて(これを除外したのもカントですが)、それは単に「ア・プリオリに在る」という事になっています。なぜかというと、これは原理的に回答不可能な問いだからです。つまり、神の存在を問うのと同じように、一種の神学になってしまうか、賛否いずれの立場にしても決定的な確定が出来ないまま水掛け論になってしまう。これを解決するには、問いそのものを立て直さなければなりません。

 それから、上の本質直観の意味での「身体の他者性」は、誰でも内省によって自分の内側から取り出せるという意味で普遍的なものだと思います。でも私達は、「自分の身体は自分のものである」という確信も、同じくらいの普遍性を持っているのではないかと思うんですね。

 これが哲学史上でも、身心二元論と身心一元論のせめぎ合いが耐えないことの理由になっていると思います。しかしこれは、どちらが間違いというのではなくて、状況によって、身体が自分に対して「二元論的な現れ方」をしたり「一元論的な現れ方」をしたりする事実を示しているのだと思います。言いかえれば、自分の身体が「物質」として現れるか、それとも「自分そのもの」として現れるかという事です。そして両者の区別を立てないような表現をしようとするところで、メルロ・ポンティが提示した「身体の上で『私の世界』が開けている」という考察が出てきたわけです。

 「自分の身体・生命は自分のものではない」という事と、「私」が倫理的行為を意思してその責任を「主体」として受け負うという考えが矛盾なく両立するためには、「私」(自分)といえるのは理性や意思だけだ、という事になると思うのですが、そうすると今度は、「身体の上で『私の世界』が開けている」という事と矛盾してしまう。なぜなら身体によって開かれる可能性は、意志(による自己決定)以前に自己の「欲望」が身体によってもたらされるという、その事に負っているからです。

 そういう意味では、「私」とは私の身体において開かれる自分の可能性の総体(実現しない願望も含めて)だといえます。臓器を提供する(しない)という事も、「私」が身体を持つことによって開かれる可能性という意味では同じで、問題はこれを他の可能性と区別する原理があるかどうかだと思うんですね。例えば胃潰瘍の手術で胃を取ってしまう場合には、それは自分の今後の「生」のためだという点で脳死移植とは異なるわけです。だけどそれでは、臓器の提供と遺言を残すという行為とはどこが違うのかという話になってしまう。だけど私の考えでは、その答えは「行為」それ自体の中からは出てこなくて、その行為が置かれた状況の文脈の中で考えるしかないわけです。

 そこでいえる事があるとしたら、やはり「3つの死」の内、ここでずっと話題の中心になっている「二人称の死」の内実、つまり(倫理に先立って)「関係」について考えるしかないと思うのですが、これは「倫理」についての中で書きましたから、ここでは繰り返しません。


医療における自己決定権について 投稿者:てるてる  投稿日:11月25日(土)12時43分03秒

>しかし脳死の人からの臓器摘出において想定される「まちがい」とは、そういうものでは
>ないのです。死の文化の破壊、ということも言われますが、私としてはやはり「自分の身
>体・生命は自分のものではない」ということとウラハラのこととして、この世の「生命の
>あり方・なりたち」そのもの(個々の命ということを超えたもの)に対する重大な侵害が
>あると考えるものです。おそらくてるてるさんはこれも認めないでしょうが…。ただてる
>てるさんが「認めようと認めまいと」このような感覚は、かなりに多くの人が心のどこか
>に引っかけているだろう共通の感覚であると私は考えています。

このことについて、以下のように考えます。
まず、米本昌平によると、日本の医学学術登山隊がチベット奥地に行った時のこと、
ある村の人々が村長が死期が近いというので運んできたが、日本の医師たちは治療
してしまった。すると村人一同、すっかり困惑してしまった。ということです。
これは、一種の、死の文化破壊だったのではないか、と思います。しかるに、死の
文化破壊とは、相対的なものではないでしょうか。

ここに、輸血も献血も禁止している宗教の信者が過半数を占める国家があると想像
してみましょう。法律は、いまの日本とほぼ同じとして。
ある場合には輸血をしなければ死んでしまうが、大半の人々は、それを受け容れて
きた。しかし、ある人々が、輸血を受けて生きたい、といい、別のある人々が、献
血しましょう、と名乗り出た。そこで、その国では、輸血を受けてまで生きたいの
か、とか、家族が反対しているのに献血をする場合は、
>この世の「生命のあり方・なりたち」そのもの(個々の命ということを超えたもの)
>に対する重大な侵害
である、という意見が出された。
しかし、その国の法律が自己決定権を尊重するならば、輸血も献血も行われるだろう、
と思います。


またまた 投稿者:ひるます  投稿日:11月28日(火)14時54分24秒

レスが遅れております。明日あたりはなんとか。

それとここは雑談掲示板なので、他の話題もどうぞ(笑)。
臓器移植関係は例によって編集してアップして読みやすくするというテも
ありますので。


再び倫理について1 投稿者:ひるます  投稿日:12月 1日(金)15時36分06秒

すいません、予告よりさらに遅れました。
まずは神名さんへ。例によって半分だけです。

神名さん、まさにそこが面白いところです。
「小浜さん・竹田さんと互換的」というのは、あまりにモノゴトの説明を省略した唐突なマクラで、よけいな混乱を招いたかと反省してます(汗)。

私の言いたいところは、外的な道徳規範の押しつけではないという点で小浜さんと互換的であり、竹田さんの『プラトン入門』における「普遍性の探究」と「倫理」を重ね合わせる、という文脈において竹田さんと互換的、ということです。

まず私の言う「倫理」とは、家族や隣人、具体的な関わりにおける「関係のよさ」ではなく、より「普遍的な」関係の中で共有しうる(即、誰にとっても、ということではないのですが)「よさ」をめがける態度です。これはあらかじめ「普遍的な価値」を立ててそれを押しつけるわけではなくて、むしろ他者とのかかわりの中で「何がほんとうに正しいと言えるか」を検証しつつ確認していくということです。ここで「他者を目的として」ということがまた問題なのですが、これは「他者のために何かをなせ」ということが、この世でもっとも正しいことなのだというようなことを言っているのではまったくなくて、ある具体的な関係の中で「よい関係」が出来たとして、しかし、その関係を含む他の関係においては、それはよくないかもしれない、という風に常に「それを否定するものとして現れるような他者」を想定し、その内側から考えることによって「本当のよさ」を検証していくという契機を持ち続けるということを言いたいわけです。これは『プラトン入門』の中で、竹田さんが「知の普遍化の原理は『〜にとってよい』という観点自体を普遍化すること以外ない」と言っているのと一致すると思います。ワタシ的には「他者への永続的な配慮」ということです。

なぜそのような契機を重視しなくてはならないかといえば、とくにこの「脳死・臓器移植」のような問題においては、単に提供者・被提供者、家族といった具体的な関係の「よさ」だけが問題なのではなく、「脳死・臓器移植」が社会的システムとなった時点で、そのようなことに関わりたくないと思っている人でも、そのようなことが行われる社会を生きるという意味においては、関わらざるをえなくなり、またこれから生まれてくる人々は、いやおうなくそれに関わっていくことになる。そういった「空間的―時間的拡がり」における影響を考えざるを得ないからです。

しかし「倫理」とは、何も突拍子もないことではなく、このような場での議論が、すでにしてそれです。私はネットでしか存じ上げないけれど、神名さんも、てるてるさんもかなりに「好き」で、具体的な関わりにおける「よさ」ももちろん願っている。しかし、もし関わりだけをよくしたいのであれば、単に話をあわせていちいちごもっともというだけで済ませる、というテもあるわけです(まあここに参加しているみなさんなら、そんな事してもすぐに見抜いて、逆に関係が悪くなるということになるでしょうが)。しかしそうではなくて、いい関係というのとは別次元での「よさ」をめがけてこういった議論は行われている。学問は「事柄そのものへの奉仕」であって、「学界という世間」への奉仕ではない、というのと同じで、倫理は、単に具体的な関わりの中での「よさ」をめざすのではなく、大袈裟に言って「この世におけるまっとうさ(正しさ)とは何か」を探究し、実践するものだ、ということです。しかしそのような普遍的な正しさを「超越的な視点」から確定することは誰にもできませんから、常に倫理的判断は「決断」としてしかなされず、それは「責任」を引き受けるということと一組になっているというのは、前に書いたところです。もう一つ言っておけば、倫理的判断とは、徹底して内面的(実存的)な問題でありながら、同時に「公的な精神」へと訴えかける問いでもある、ということになるでしょう。
(下の投稿につづく)


再び倫理について2 投稿者:ひるます  投稿日:12月 1日(金)15時37分29秒

(上の投稿のつづきです)
もちろんこれは具体的な関係におけるよさの創出を否定するものではないし、私の言う意味での「倫理」のみがダイジというのでもありません。むしろ大仰に「倫理」を語るより、具体的な関わりの中での「よさ」を創り出すことの方が、何倍もむずかしく、ダイジである場合の方が多い。これはまずハッキリさせておかなくてはなりません。その上で、あえて「倫理」をそのようなものとして定義的にとりだすのは、具体的なかかわりにおいては、当事者間でその関係の「よさ」が確認されているならば、それですべてオッケーと言うことになりますが、その当事者間関係というのは、それ以外の関係を排除するという性格ももつわけです。つまり関係のよさだけが問題であるならば、あえてその関係の「外」をさらに想定した上で何が正しいかを考えてみる、という契機は「原理的には」出てこないわけです。これは、あくまで原理的には、ということであって、実際には考えてしまう人もいるわけだけど、それこそ「誰もが」倫理的になるなどということはない…それが私が「モチーフを除外する」理由です。モチーフについて語らず、むしろ倫理とは、「そうしなくてもいい、にもかかわらず、そうする」というカタチをとるものだというにとどめるわけです。

そういう意味で、私は小浜さんのエロス的な関わり(竹田さんと小浜さんの「エロス」はかなり違いますから、やはり二人称的と言った方がいいかも)を「倫理」的なものとは考えない(家族は「非―倫理的なもの」ということの意味あいもそこにある)、したがってそれを根拠にして臓器摘出を可能にする小浜説?を「倫理を逸脱する」と言ったわけです。また逆に家族が提供の意思を拒絶することを認めるのは、家族がいい関係であるべきだとか、あるはずだ、ということではなくて、何度もいうように、提供それ自体のまっとうさにかかわる疑問から、
ようするに「具体的な関わりを持つ人が反対するのであれば、それはやめておいたほうがいいのではないか」ということにすぎません。

そもそも提供への意思を「ぎりぎり」倫理的な判断においては認める、という私の立場は、その行為が「他者の共済」という意味で倫理的でエライから、認めるべきだということを主張するものではなく、そのような行為をいちおう「倫理的」だとした上で、ぎりぎり許してもいいのではないでしょうか、ということを「公共」に向かって訴えかける、それ自体ひとつの「倫理的」判断にすぎないわけです。


ひるますさんへ 投稿者:てるてる  投稿日:12月 2日(土)13時48分22秒

現実的には、たとえば森岡案のように、本人の意思表示に加えて、家族が拒否しない
ことという現行法を維持するのが、世論調査の結果をみても、一般に支持されやすく、
実現しやすいと思います。いま、ちょうど、森岡サイトのメイン掲示板で賛同者を募
っています。てるてる案とは家族のとらえかたが違いますが、少なくとも本人意思の
明確な表示を必要条件としているので、応援します。

http://www.tcup3.com/322/lifestudies.html


森岡案 投稿者:ひるます  投稿日:12月 8日(金)14時09分08秒

またまたレスが遅れてしまい、すいません。
森岡掲示板は盛り上がってるようで、すでにしてA案かB案かということを書き込むタイミングではないようなとこにいってますね〜。
たしかモイナさんという方?が、村瀬学さんの「13歳論」を引き合いにだしてるようでしたが、私も村瀬さんの考え方に近い。ただ、13歳という具体的な年齢がどーのというより、「自分自身で、法の世界へ参加することを決定した」ということの意味あいを大事にしたいと思ってます。10〜13歳くらいのどの時点かで、その決定を為し、それとリンクするカタチで意思表示が可能になればいいと…。ただこの方法だと、ひょっとして憲法改正が必要かもしれない。
↓13歳論については下記など参照。
(13歳になるときに、「法」の世界の住人となるのと引き替えに、国籍・名前・性別!などを「自己決定」できるという考え方であります)

http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/HEAD/head11.html


13歳 投稿者:てるてる  投稿日:12月10日(日)08時25分31秒

刑法では、13歳以上の男女に対しては、暴行または脅迫によって、「猥褻」な行為や
「姦淫」をしたものは罰するとされていますが、13歳未満の男女に対しては、暴行や
脅迫によらないでも、「猥褻」な行為や「姦淫」をしたものは罰するとされています
ね。
これは、13歳という年齢が、「法的に」(?)本人の合意のうえで性行為に参加できる、
という区切りになっているようです。

地域や時代によっては、少女が初潮を迎えると、「女性」の仲間入りをしたとして、
お祝いをする習慣があります。これだと、年齢ではなく、からだの変化が、区切りに
なっています。私は、一応、合理的な目安だと思います。
男性のほうは、共同体ごとに、成人になるための通過儀礼があって、ひとりひとりの
男の子がいつそれに参加するかは、適当に決めていたのかな?


RE:身体の他者性について 投稿者:ひるます  投稿日:12月11日(月)17時24分53秒

てるてるさん、13歳へのレスありがとうございます。
この話題も突っ込んでいくと面白いかも。

さてさて超遅ればせながら、神名さんの身体性についてのレスです。

身体性については、神名さんとかなりに互換的な!考えの上に立っていると思うんで、そこらへん突き合わせていくと面白いと思います。つまり実は私も「身体の上で『私の世界』が開けている」というような身体観の上に立っているのです。

どこで話が食い違うかというと、「自分の身体・生命は自分のものではない」という「感じ」を私はある種の共通感覚として提出してきているのであって、哲学的?原理的な考察として「自分の身体には他者性がある」(その背後に神などの超越項を置く)としているわけではない、というところでしょうか。

問題はこれが、脳死からの「摘出」を自分で決定するという非常に特殊な場合におけるものだということでしょう。

第一に基本的なこととして、そこに「自分自身に対する殺人」というファクターが絡んでくるということでしょう。バカみたいな話だが、ひとは自分で意志して自発的に「死ぬ」ことができない。もちろん自殺はできるが、それは「自分を殺す」ということなのであって、自動詞としての「死ぬ」ではない(修行をつんだ聖人に自動詞的に死ぬことができるらしいが…)。それはともかく、摘出の意思は「脳死」においては、「自分を殺す」という意思になる。

つまりそれは「そこ」で「私の世界が開けている」、その当の身体そのものの抹消ということになる。とすると、そのような行為は身体の開けの「場」であるような身体を「対象」に(ある意味で)擬制化するという手続きをとらなくては出来ない、ということになります。つまり私が身体の他者性を哲学的に主張するのではなく、その行為(意思)自体が、身体を必然的に対象化するという構制をもっていて、そこにも何らかの「他者性」が生じる。つまりそれは身体一般に関する認識論的問題ではなくて、身体へと関わる実践的な問題です。ただし、それは身体がなんらかの「抵抗」として現れるというのと同じで、それだけからは、そのように現れた「他者」が不可侵なものであるということにはならないでしょう。

そこで神名さんのおっしゃるように、その行為がおかれた状況の文脈の中で考えるしかないわけですが、ただし第二の論点として、この脳死からの提供という行為は、すでにして密接にある特定の文脈の中に埋め込まれている、ということが大事だと思います。つまりこの場合の「自分を殺す」ということは、単に孤立した状況の中で、個別的に自分を殺すということ(つまり自殺ですね)ではなく、あくまで「法」的に整備された環境の中で、社会的に行われることになるからです。すでに前の「再び倫理について」でも書いたように、私としてはこの問題は二人称の関わりの文脈では解決できないと考えているわけです。

このような社会的な文脈においたときに初めて、先のようなある種の共通感覚としての「自分の身体・生命は自分のものではない」という「感じ」が到来するのではないかと思います。「自分の身体を自分のもののごとくに自由に扱ってはならぬ」という「他者の語り」として、そのコトが我々にもたらされるという感じ…とでも言いましょうか。とするならば、ここで問題なのは「身体の他者性」ではなく、むしろ「自分を−殺す」という「分節化されたコト(思考や行為)」に対して呼び起こされる(倫理的な審級としての)「他者性」なのではないか、という気もします。

いずれにしても、個々別々に自分が自分を殺して臓器を提供するということではなく、社会的にそれを行う(法的に整備する)ということが問題である以上、それは社会的に共有しうる文脈の中で決定されなくてはならない、ということになると思います。前の書き込みで村瀬学さんの13歳説にひきつけて、子どもが意思表示するのであれば、「法」の世界の住人であることを自覚していることが肝心だというようなことを書きましたが、それもこれと関わる問題なわけです。


ちょっと整理をさせてください 投稿者:なみへい  投稿日:12月17日(日)05時20分07秒

 ひるますさん、神名さん、こちらではご無沙汰でした。
 てるてるさん、はじめまして、なみへいです。
 こちらの議論は参加しないまでも、ずっと興味深く読ませていただいてます。
 これまで発言しなかった理由はあとで書くとして(覚えてたら、ね(笑))……。

「倫理」について、ちょっとだけ。
 ひるますさんの言及されている柄谷行人氏の「倫理21」に示されている「倫理」(柄谷的倫理、と呼びましょう)とは、本の冒頭で示されているようにヘーゲルの「倫理」ともカントの「倫理」とも違っているものです。その部分を明らかにしておいたほうがすっきりするのではないかと思うのですが。

 柄谷氏は「倫理21」の最初でこう書いています。
  『カントは一貫して道徳的=実践的という言葉を使っていますが、彼が道徳的とか
  実践的という言葉で意味しているものは、通常の意味とはかなり違っているので、
  私はむしろ、それを倫理と呼び、道徳という言葉は通常の意味で使いたいと思うの
  です。すなわち、道徳という言葉を共同体的規範の意味で使い、倫理という言葉を
  「自由」という義務にかかわる意味で使います。断っておきますが、これは一般的
  に承認された定義ではありません。たとえば、ヘーゲルは道徳を主観的なものとし、
  倫理を習俗規範(家庭・共同体・国家)として上位においています。だから、私の
  区別とはまったく逆です。』

 この文章を読んだうえで言わせていただければ、ひるますさんと神名さんの発言のなかにどうも「倫理」という言葉の意味の齟齬があるのではないか、そんな気がしてなりません。「柄谷的倫理」について言わせていただければ、氏のこの考えはごく最近になって出てきた考えで(98年〜99年)、それはおそらく「竹田的倫理」とも「小浜的倫理」とも異なったものではないか、と思うのですが。
 ここの違いは重要じゃないか、と思うのですが。
 つまり、「柄谷的倫理」は「カント的倫理」とも「ヘーゲル的倫理」とも食い違っている、ということです。しかし、「柄谷的倫理」はカントとマルクスから導かれているという意味では、神名さんの言われている「カントに近い」という表現は当たっていると思います。ひるますさんは、どう思います?

 とにかく、「カント的倫理」「ヘーゲル的倫理」「竹田的倫理」「小浜的倫理」と「柄谷的倫理」の間には「意味の切断」があると思います。ここは注意するべきではないでしょうか。
 カントの哲学が「主観的」であることは確かでしょうが、それは柄谷氏の言う『命がけの飛躍』(『探求1』)を認識したうえでの「主観性」ではないかと思います。

「臓器移植」について言うならば、僕にはこの議論が「自分の臓器が他人の中で活用される」ことを前提とした議論でしかないような気がします。そうではないのではないでしょうか。てるてるさんが言われた「本人と家族の齟齬」についても、その問題に直面するのはその場に「臓器移植を待つ他人」が存在しなければ存在しない疑問です。臓器移植をされる「被提供者」の存在がなければ、いくらでも先送りできる問題です。
「本人とその家族の意志の違い」が問題になるのは、その場に「被提供者の存在」が意識されているかぎり、ではないでしょうか?

 きついことを書いたかもしれません。ごめんなさい。
 しかし、「日本人」という共通規範を前提にする議論は、「柄谷的倫理」の問題ではない。僕はそう考えてます。

 あれ? 全然整理になってないな。
 ひるますさん、ごめんなさい。人の掲示板で変なこと書いたかも。

てるてるさんへ。
 男は15歳で一応「元服」というのがありましたね。この年齢も「数えで15歳」だから、女性と殆ど変わらないのでは?
 質問、はずしてたらごめんなさい。

http://www.interq.or.jp/neptune/namiheij/


柄谷的、ひるます的 投稿者:ひるます  投稿日:12月19日(火)13時52分01秒

なみへいさん、待ってました!
まさにそこには意味の切断がある…。そういう意味では柄谷の「倫理」だけが、特別に異なる意味あいの特殊用語であって、ほかの人が「倫理」について語ってるときは、ようするに道徳的とか倫理的とかいうことの区別なしに、日常的な用語として使っているということですよね。

たしかに私が使う「倫理」は、特殊用法って意味では「柄谷的」なわけで、なみへいさんが付けてくれた注釈を始めに自分で断っておくべきだったかな、と反省してます(いちおう『倫理21』の書評へのリンクを載せてたとは思うんですが…)。しかし、私がなぜに「柄谷的倫理」に即して話をしないかというと、よーするに柄谷の『倫理21』に先だって、オレ自身が「倫理」を特殊用法において使っているから、これですね(笑)。

どのへんからそういう用法を使っているかと調べてみると、伊丹堂の「オムレット」についての質問に答えるコーナーですね。そのあたりで、倫理を共同体的規範との対立において「創造的」なものとして捉える用法が確立している。それにあたっては、斎藤環さんの「創造の核としての倫理」という文言を拝借しているのですが…。このへんを面白おかしくまとめたのが、ヘッドライン29〜30に掲載した問題の「位相図」なるものです。これはちょっと面白いのでまだご覧になってない方はぜひご覧ください。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/HEAD/head29.html
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/HEAD/head30.html

そして私のいう「倫理」は必ずしも「柄谷的倫理」とも一致しない…と思ってます。一致するのは、特殊用法であること、通常の共同体的規範とは異なること、個人の実存的な決断(覚悟と責任の引き受け)という内的な構造を持っている、というところでしょうか。一致しないのは、「自由という義務」というモチーフ?の扱い、それと柄谷的倫理があまりに純化されていて、あるいは「主観的」「実存的」にすぎて、国家や政治という問題を取り扱えないというところにあります。このへんのことは『倫理21』の書評↓にもチラっと書きましたが、私としてはこれからの「自立した個人がそれぞれの多様性を認め会いながら共生する社会」においては、共同体的規範ではもちろんないけれど、そこそこに「共有されている倫理的なあり方やフォーム」というものが成り立つ(あるいはなくてはならない)と考えているわけです。そこが前回の書き込みで強引に竹田青嗣さんの「普遍性の探求」を互換的に結びつけた理由でもあるわけです。ようするに共有に至ろうという努力もまた倫理である。他者の問題で言うと、「被提供者の存在」とともに、臓器移植法がまかり通る社会を生きるすべての人々、さらには柄谷の言う「死せる他者」をも射程にいれた配慮が必要だというのが、このところ言っていることなのです。

う〜ん、なんかこれってレスになってるんだろうか?>なみへいさん

http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/WEBZIN/hirumas33.html#0314


ありがとうございます 投稿者:なみへい  投稿日:12月23日(土)19時32分48秒

 ひるますさん、ありがとうございます。
「整理」と言いながらかえって「散らかした」だけかな、と思っていたのですが、ちゃんと求めていたレスをいただいて、ほっとしてます。
 相関図、見ました。いやあ、面白いです。いろいろ「ツッコミ」を入れたくなった部分もありますが、まだ読み込みが足りないのでそれは今度にして……。

 僕自身は柄谷行人の「倫理」にすごく具体的なものを感じています。「あまりに純化されている」ものであることはそうだと思いますが、「国家や政治という問題を取り扱えない」のではなく、「国家や政治という共同体規範(道徳)を前提として成立した社会構造の内部の問題」はその「社会構造」や「共同体規範」をも含めて批判されるべきものとして捉えている、ということだと思います。
 臓器移植の問題に沿って考えるなら(それほど深く考えているわけではありませんが)、これが日本という「国家」の内部の問題である以上、それは柄谷の言う「共同体規範の内部」の問題であって「倫理」の問題ではない。「国家」という限定された範囲で、「臓器移植治療」が常に可能である、という医療技術を前提としている。この議論は飢餓や内戦の続くどこかの国では成り立たない。それほどまでに限定された議論なわけです。しかも、「他人の臓器を貰って生き延びようとする」被提供者の存在を全面的に肯定している訳ですよね?
 こういうさまざまな枠組みの中で語られる議論では、ある意味「普遍的な倫理」を導入することは不可能なのではないか、というのが僕の考えです。

 共同体規範的に言えば、僕も「森岡案」(ホームページでざっと見ましたが)には賛成です。

 しかし、ここでは上に書いた前提条件をはみ出しても、「倫理」の問題として、ひるますさんの意見を聞いてみたいと思っています。柄谷行人も何かの対談で「自分自身も共同体的存在であることからは逃れられない」と言ってましたが、「共同体的に生きながら、倫理的に考える」ことは必要だと思います。僕がこの議論の「法律的」な部分に関わらなかったのはそのためですが(ここでは「倫理的に考え」たいので)。

 じつは、ずっと前から気になっているのは、この議論の最初の方でのひるますさんの発言なんですよ。
 どこかでひるますさん、「この問題については書きづらい」という感想を書き込まれていたと思うんですが、その「書きづらさ」が何なのか、というのが僕には非常に興味があります。その「書きづらさ」というのが、僕には「共同体的」思考と「倫理的」思考の間の「ずれ」から生じているように思うのですが?
 違ったらごめんなさい。どうでしょうか?

http://www.interq.or.jp/neptune/namiheij/


横レスで失礼します 投稿者:てるてる  投稿日:12月23日(土)22時00分08秒

>臓器移植の問題に沿って考えるなら(それほど深く考えているわけではありませんが)、こ
>れが日本という「国家」の内部の問題である以上、それは柄谷の言う「共同体規範の内部」の
>問題であって「倫理」の問題ではない。「国家」という限定された範囲で、「臓器移植治療」
>が常に可能である、という医療技術を前提としている。この議論は飢餓や内戦の続くどこかの
>国では成り立たない。それほどまでに限定された議論なわけです。しかも、「他人の臓器を貰
>って生き延びようとする」被提供者の存在を全面的に肯定している訳ですよね?

私には、倫理とか共同体規範とか、哲学の専門的なことはわかりません。
しかし、移植医療のためのルールづくりが、日本国内部だけの問題に終始するとは思え
ません。
外国に移植手術を受けに行く人がたくさんいます。その人々は、外国に行って、自分達
の生が肯定され、心身ともに生き返った思いで帰国し、日本国内でも移植治療が根づく
ように熱心に活動されています。外国では、移植手術を受けた人や臓器提供者の遺族の
ための精神的支援も進んでいるからと、日本でも、トリオ・ジャパンのカウンセリング
活動そのほか、精神的なささえあいを民間の非営利団体で行っています。

また、日本人も、外国で脳死の人から臓器提供をしてもらうだけでなく、外国で脳死
して臓器提供した人もいます。そして、日本国内に住む外国人で、脳死した人の家族
が臓器提供を申し出た例もあります。

もちろん、外国でも臓器医療の問題は日本と同じようにあります。
脳死を死と認めない意見、家族の承諾だけで臓器提供できるという方式をやめて本人
の意思表示を必須とすべきだという意見、脳死後の臓器提供を承諾した家族の悩み、
等々、あります。
そして、臓器不足が深刻で、だからもっとドナーの要件を緩和すべきだという意見と、
このような医療に疑問を深める意見とがあります。
複数の国々でネットワークを作って、国際的な臓器提供もしています。

ですから、日本国内だけの問題というように考えない方がいいと思います。
日本で、臓器移植についてきっちり考えることは、外国にとってもたいせつなことでは
ないかと、森岡さんが、日本の臓器移植法は世界的にみて進んでいると言っているので
その先鋭性をたいせつにしたいと思います。

ところで、「他人の臓器を貰って生き延びたい」ということについてですが、移植手術
を受けないと死ぬと言われた人以外は、移植に関する、決定的な、自分の骨身にしみる
情報を持っていないということを、常に思い出すように心がけたいと思います。
同時に、脳死の人を看取った人以外は、脳死に関する、決定的に自分の心を動かす情報
を持っていないわけで、その点を移植患者にもふまえてもらって、移植医療を推進して
ほしいと思います。

>この議論は飢餓や内戦の続くどこかの
>国では成り立たない。

まったくそのとおりです。
ただし、貧しい国から豊かな国へと臓器提供は多く行われていて、豊かな国から
貧しい国への臓器提供は、無いようです。


日常的、共同体的、倫理的 投稿者:なみへい  投稿日:12月24日(日)00時08分09秒

 てるてるさん、ありがとうございます。

 もちろんですが、僕は臓器提供を受けたいと願っている人、提供をしたいと思っている人、そうした移植を実現しようとして努力されている医師やコーディネーターや家族など、さまざまな方々の「それぞれ」について何か言いたいわけではありません。現実に存在するその方々について言っているのではなく、確認したいのは「被提供希望者の意志を全面的に肯定している」らしい「社会的規範」そのものです。「誰か」の話ではなく「社会的通念」自体です。
 それぞれの個人の「生きたい」という「意志」は尊重されるべきだと僕も考えます。問題はそうして努力している「個人」の側にあるのではなく、「個人の意志」を投げかけられた「社会」の方にある、と考えるのは同意していただけるのではないか、と思うのですが?
 なんか、「思考の場」としての「土俵」が曖昧なような気がして、その「土俵」をしっかりしとかないと「がっぷり四つ」に組んだ相撲ができない気がして……。変なところにこだわっているのかもしれません。

「臓器提供の意志」を持つことも「被提供者となるという意志」も、「臓器移植」行為そのものについても、「無条件(あるいは条件付き)に肯定するべき」という「規範的な結論」が出ているのでしょうか?
 すみません、僕にはそこのところがよく分からなくて……。

>ただし、貧しい国から豊かな国へと臓器提供は多く行われていて、豊かな国から
>貧しい国への臓器提供は、無いようです。
 やはりこれは技術的な、あるいは経済的な要因が考えられるのでしょうか?
 このことがあるから、「土俵」にこだわってしまうんですよ、僕は。こだわらないと、結局は「先進国」の都合が「世界的理念」になってしまう。

 質問ばかりですみません。

「限定された議論」をすること自体も、僕は問題だとは思ってないんです。「限定された議論」がいつの間にか「普遍的な」議論にすり替わってしまうと、ちょっと違うのではないかと。
 そのためには、何に「限定されて」いるかを、確認しておく必要があるのではないか、と思いましたので。


規範 投稿者:てるてる  投稿日:12月25日(月)22時34分35秒

>「臓器提供の意志」を持つことも「被提供者となるという意志」も、「臓器移植」行為そのも
>のについても、「無条件(あるいは条件付き)に肯定するべき」という「規範的な結論」が出
>ているのでしょうか?
> すみません、僕にはそこのところがよく分からなくて……。

そう言われると私にもよくわかりません。
「無条件に肯定するべき」という「規範的な結論」は出ていないと思いますが…
『臓器移植、我、せず、されず』『私は臓器を提供しない』等の本が出版されています
し、中島みち・梅原猛・森岡正博などの本は、臓器提供を条件つきで肯定している本だ
と思いますが、肯定する「べき」とまでは言っていないし。

外国の文献では、臓器移植を望む人が○○○○人で、この人たちの要求はリアルで、
だから臓器不足を解消しなければならない、という、論調のものが多いですが、そう
いうのは、もう無条件に臓器移植を肯定していて、「肯定するべき」とまでは言って
いないけど、肯定するのを当然と考えているから、肯定するべきと言っているのと、
同じなのかな…

外国の中に、、成年に達した国民全員に登録用紙を送付したり、病院を臓器調達係の
医師が巡回したりするようにすることを法律で決めている国があるのを知ると、確か
に、臓器移植を無条件に肯定するべき、という規範があるかのように見えます。
私も、そこまでするのか…と思います。

でも、たとえば、ブラジルで、スペインのように、本人の拒否の意思表示がなければ
家族が承諾しなくても臓器を摘出できる、という法律が国会で採決されると、国民が
恐慌をきたして猛反対したので、採決を撤回したという例もあります。


本音と建前 投稿者:てるてる  投稿日:12月25日(月)22時39分14秒

おそらく、どこの国でも、本音と建前とがあるのだと思います。
日本よりもずっと多くの脳死の人からの移植手術が行われている、年間に数百の
心臓移植手術が行われている国でも、ドナーカードに臓器提供の意思表示をして
いる人は少なく、登録制度を敷いているオランダでも、そうです。
スウェーデンなどの北欧の国は、年間の心臓移植手術は数十に留まっています。
USAでも、ドナーカードに臓器提供の意思表示をしている人の割合は、なかなか、
半分を越えない。3分の1、4分の1といったところに留まっています。
それでも一方ではUSAでもドイツでも「あなたの臓器を天国に持っていかないで」
と書いたステッカーを車に貼って走っている人々がいるわけですから。
すごいおせっかいだと私は思いますが。


イタリア 投稿者:てるてる  投稿日:12月25日(月)23時48分35秒

そういえば、NHKスペシャル「世紀を越えて」や、NHK-BS「地球法廷」で、
イタリアの移植患者団体の人が、国民には連帯の義務があるから、移植の
ための臓器提供は法律で国民の義務にするべきだ、と言っていました。


RE:イタリア 投稿者:ひるます  投稿日:12月27日(水)11時13分15秒

ちと話がそれるが、てるてるさん、それオレが森岡掲示板で投稿したんだけど、誰〜も反応してくれなかったのよ(笑)。
「世紀を超えて」では、正確には「国民には連帯の義務があると憲法で規定されている」と言ったのね。で、当時町野案は「人間は連帯する存在である」という文言を使っていて、それはイタリア憲法のパクリなんだから、それを押し通そうというのなら、日本の憲法改正しなきゃ、と言ったわけ。
でもなぜか町野案の最終的形式では「人間は善意を示す存在である」だっけ?そんなのにスリ変わってましたね。そのへんの微妙な変更ってどういう経緯なのか、はっきりさせてほしいなぁ〜と思ってたんだけど、てるてるさんはご存じでしょうか。
結局は「連帯存在」というファシスト党の国(イタリア)ならではの、共同体的規範を想起させるような表現を嫌って、一般的な「倫理的」表現にすり替えてみましたってことじゃないかと思うんだけど、どうでしょうか。


後退戦としての倫理(1) 投稿者:ひるます  投稿日:12月27日(水)11時15分05秒

そのイタリアの話ともからむけど、なみへいさんの「書きづらさ」の指摘、たしかにオレにとっては、もっとも肝心な点です(それにしても、なんでここにはこーいう鋭い人が集まるのか?)。
それが「共同体的」思考と「倫理的」思考の間の「ずれ」から生じているかどうかというと、たしかにそうも言えるんだろうが、オレとしては前から書いてるようにそういう2分法はとらないので、微妙には異なる。

まず国家の内部であれば共同体規範の問題というところが、根本的に異なると思う。つまり国家の内部の問題であっても単なる共同体規範(よーするに「身内」の掟であり、他者を排除するもの)ではなくて、可能な限りの他者を配慮するという意味での倫理的な思考に基づいて「共通のルール」を創出していこうとする「公共性の精神」というあり方がある。
こういう「公」のあり方は、「国家を超える正義としての公」(いぜんよく覗いていた于論茶さんがその掲示板で使ってた)という意味では「国家」の外に立つわけだけど、それは別に地域的に外にあるという意味ではなくて、いわば「上に」超出するというあり方。私としては、つねに「政治」というものは、そういう意味での「公」という契機を持たねばならぬものであって、単に「共同体規範」の内側で思考するだけなら、別に政治は不要であって、優秀な官僚がいればいいということになる。ここらへんが、伊丹堂が(笑)「柄谷さんは民主主義が分かってない」というところで、柄谷氏が「NAM」とか言い出すところで、オレならまず「選挙へ行こう」という。

これはアレントさんなんかに従って、ようするに「国家」といっても、日本・ドイツ(そしてイタリア?)のような「共同体規範」によって成立している国家と、アメリカのように「共同体」が崩壊したところから「公共的な権力」を合意によって創り出そうとした国家との、2種類があるといってもいいんでしょう。ただ、日独型の「共同体的」国家といえども、実体は共同体が崩壊していく過程の中にあり、それを止めることはできないという認識がダイジでもある(土屋さんのいう「無縁社会化」)。つまり共同体的規範とは異なる公共的なルールを作りだしていく以外ない。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/HEAD/head26.html

(この項つづく)


後退戦としての倫理(2) 投稿者:ひるます  投稿日:12月27日(水)11時16分08秒

(つづきです)

そういう中でこそ前から言ってる「普遍性の探究」としての倫理のあり方、というか、共有されたルールづくりというあり方がダイジだということにもなる。しかしその前提としてダイジなのは、そこで共有されるのは何が正しいかということについての評価であり、何が公的な権力によって代執行されるべきか、ということなのであって、「個々の人間のその実存において何をすべきか」ということではない、ということですね。それが例の論考でも言ってる「自由主義社会」つまり「非−共同体的社会」においては、「特定の倫理的行為」つまり「特定の主義主張・価値観に基づく行為」を押しつけてはならない、ということです。さらには、「人には非倫理的に生きる権利がある」ということであるわけです。まさにこの次元において、倫理(実存)と(共同体的であれ非共同体的であれ)ルール(規範)とは、まったく別問題だと言える…。

そういう前振り(長い〜)をした上でであれば、たしかに「書きづらさ」は、倫理と規範とのズレから生じてると言える。何度も書いてるように、僕の立場は、他者の侵害と他者の救済の拮抗の上において「ぎりぎり」脳死における臓器提供を認めよう、というもの。臓器提供は個々の人たちのそれぞれの実存における倫理的判断によってのみ可能なのであって、それを「臓器提供はいいことだからするべきだ」という「規範」にしては絶対にならない(この点で町野案に反対するということ)。例の論考で「倫理性をいかにして担保するか」ということが大事だと言ったのは、ここのとこです。仮に町野案というものがなかったら、そういうことすら実は言う必要がない。町野案に呼応するカタチで(規範化に抗して)倫理を言わざるを得ない。しかしそれは非常に際どいですよね。完全反対派から見れば、倫理ということを言っても、やはり臓器提供を推進しているのではないか、さらには、なみへいさんの指摘する「被提供者の欲望」を全面的に肯定することになるがそれでいいのか、ということになると思います。森岡さんが初めに町野案への異議を提出した時点で、僕はその戦いを「後退戦」と表現したのですが、それはギリギリで認める立場(私と森岡さんの立場はそれこそ互換的だと思いますが)は、それを積極的に語ろうとすればするほどに、それにまっこうから反対する人にとっては、規範化・推進派とまったく同一視されてしまうだろうということが、充分に予想できたからです。「後退戦」といっても、それはそこにギリギリの立場で踏み出していく森岡さんに、最大の敬意を表するという意味あいで、そう言ってみたわけです。それがオレの「書きづらさ」にもつながってると思いますね(…なーんていうけど、単に書くのがメンドイとか、反論が予想される場にあえて踏み込んでいくのがかったるいなんていう理由ももちろんあります…)。


RE:RE:イタリア 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)23時29分17秒

>ちと話がそれるが、てるてるさん、それオレが森岡掲示板で投稿したんだけど、誰〜も反応し
>てくれなかったのよ(笑)。

なるほど、そうでしたね。今、過去ログを確認しましたが、
「連帯 投稿者:ひるます  投稿日:05月23日(火)11時36分53秒」
という御投稿でした。以下、引用。
>イタリアの「沈黙の同意」ですが、イタリアの憲法に、
>「国民は連帯する義務がある云々」という規定があり、
>その憲法が「沈黙の同意」のヨリドコロになっている
>という話があって、なんというかナルホド…、でした。
>町野案の「連帯存在」ってのが、どーしてこうも唐突にでてくるのか、
>疑問でしたが、ここからきてたんですね。まさに「町野案はパクリ」だ。
>ってことは、それが成り立つためには「憲法」もパクってこなきゃない
>ハズだが…

町野さんが森岡掲示板を読んでいるとしたら、ひるますさんのこの投稿を見て、
表現を変えたということも、ありうるかな…? そのへんの事情は知りませんが…


お〜 投稿者:ひるます  投稿日:12月28日(木)14時38分04秒

てるてるさん、さっそくに再録ありがとうございます。
そういや、てるてるさんは過去ログハウスの作成してらしたんですね。

まぁオレの投稿見てってことはないでしょうが(笑)…。


ひるます的、なみへい的 投稿者:なみへい  投稿日:12月28日(木)17時16分20秒

 ご無沙汰しました。
 ひるますさん、てるてるさん、ありがとうございます。

てるてるさんへ。
 そういえばそんな本も出版されてましたね。てるてるさんに聞かなくてもそれぐらいは気づくべきでした。>アホなぢぶん

>外国の文献では、臓器移植を望む人が○○○○人で、この人たちの要求はリアルで、
>だから臓器不足を解消しなければならない、という、論調のものが多いですが、そう
>いうのは、もう無条件に臓器移植を肯定していて、「肯定するべき」とまでは言って
>いないけど、肯定するのを当然と考えているから、肯定するべきと言っているのと、
>同じなのかな…

 僕自身はこの辺がちょっと気になっていたんですよ。おそらく「肯定するのを当然」と考えているから、「あなたの臓器を天国に持っていくな」という「おせっかい」が社会的発言としてまかり通ってしまうのかも。そしてこれが日本でも将来まかり通るようになるのではないかと。
 臓器移植の実体や生命倫理については、僕ももっと勉強が必要かな、とも思っています。無知なまま変なことばかり言っていたかも。

ひるますさんへ。
 ひるますさんの答えで、ある程度明確になりました。
『「共通のルール」を創出していこうとする「公共性の精神」』とは、そこに「共通のルール」の存在を前提し、「共通のルールの創出が可能」とする考え方を前提している、ということですよね?
 そうした「共通のルール」を前提とした「倫理」を柄谷行人は「道徳的」と呼んでいるわけです。柄谷氏の「他者」とは、「共通のルールを持ちえない相手」ですから。

 僕がてるてるさんの意見やひるますさんの意見について拘ったのはこの「共通のルールが存在する」という前提です。そこに柄谷氏の「倫理」の導入がどうも不適切な気がしたもので。
「共通のルールの存在」を前提とするかぎり、「共通のルールを持ちえない他者」について論じることはできない。ま、「共通のルールを持ちえない他者」については論じる必要はない、という考え方もあるでしょうが。
 僕の場合、やはり「倫理」というものを考えた場合、「共通のルールを持ちえない他者」についても考えるべきだと思うので、その辺もひるますさんと違うのだと思います。その辺に拘ることでひるますさんに「長〜い前振り」を書かせてしまったりしましたが。お手を煩わせてすみません。

 臓器移植の問題、そして「倫理」の問題については自分なりにもう少し考えていくつもりです。「共通のルールを持ちえない他者」に対して「倫理的」だあることが可能かどうか、も僕自身まだ不明瞭なので。
 ちょいと、「沈思黙考」に入ろうかと。と言いつつまたすぐに何か書き込んだりして(笑)。

 では、よいお年を。


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